人生の溜息

誰にだって溜息をつきたくなる時はあるもんだ。俺は毎日だ。

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目次

永遠のアセリア~果て無き物語

※注意※
これは以下のゲームソフトを基にした二次創作小説です。
PC『永遠のアセリア -The Spirit of Eternity Sword-』
PC『永遠のアセリア EXPANSION -The Spirit of Eternity Sword-』
PS2『永遠のアセリア -この大地の果てで-』
PC『聖なるかな -The Spirit of Eternity Sword 2-』
興味のある方はこちらのwikiも併せて読むと理解しやすいでしょう。
これらの作品のネタバレや設定無視を当たり前のようにして書いていくので、そういうのが嫌な人は見ないようお願いします。
また、誤字脱字の指摘はいつでも受け付けています。こちらでも発見次第、訂正します。なので最初に読んだ時と微妙に文が変わっていることもありえますのでご了承ください。

また、この小説は『ハーメルン』にも投稿しています。

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ついに

 やっちゃった……やっちゃったよ私……!
 何を、と聞かれますと口にするのも恐れ多い……言わなきゃ話が進まないか。

 二重投稿です。
 以前から言っていた、Arcadiaへ『果て無き物語』を投稿する、というのをついにやってしまったのです。
 わーわーわー、落ち着かない。ブログで初めて公開した時みたいな気分です。

 投稿先はこちらです。
 一体どんな反応が来るのやら。やけにビクついてしまい、序章の第一話のみの投稿になります。
 でも、こうして実際に掲載されている光景を見るとちょっと感慨深いです。

 え、そんなことより早く続きを書け?
 デスヨネー。
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第一章――参

 我は永遠神剣である。名は【求め】だ。
 第四位という、この世界に存在する神剣の中では最高位の、極めて格の高い神剣である。

 人間の感覚で言えば、二月ほど前のことである。我の新たな契約者がやって来た。
 大陸の最北に位置するラキオスという国の倉庫へ永い間死蔵されていた我が、世界を渡って現れた契約者の下に転移したのだ。
 人の運命とは数奇にして難儀なもの。我ら永遠神剣の干渉を受けてもすぐに結果に繋がるわけではなく、何年もの時をかけてようやくこちらの世界に召喚することができた。苦労した過去を偲ぶ思いはあれど、それだけに苦労が報われると思うと嬉しいものである。

 しかしそれらの感慨も、初対面の時点で放棄したくなる。
 この契約者、召喚されてすぐに妖精に犯されたのだ。しかも事も有ろうに、エターナルに通じた妖精に、だ。
 その結果、我の力を為すマナが大きく損なわれてしまった、否、奪われたのだ!
 屈辱である。よもや妖精如きに不覚を取るとは。
 先述したラキオスに所属する妖精に危ういところで助けられたものの、あのままでは直後に契約者は殺されていた。世界を渡って一日も経たずに消滅するなど笑い話にもならぬ。我が人間の体を持っていたなら冷や汗を拭いたいところだ。

 無論、このままでいるつもりは毛頭ない。奪われた分のマナを取り戻そうと我は契約者に働きかけた。
 契約者の初陣となる戦いの最中、正式な契約を結び、我の力を発揮できるようにはなった。その戦いで得たマナは、契約者の初めての戦闘による高揚も伝わってきて中々の旨みがあったが、戦闘自体があっさり終わってしまった。
 いくら我が強すぎるせいであっても、これでは到底満足できぬ。今度は契約者に仕える緑の妖精からいただこうと思ったのだが、賢しげに反抗してくる始末だ。妖精の分際で忌々しい。しかし今の我は無理をできぬ身であるため、已む無く断念した。

 その後も一向にマナを得ようとしない契約者に苛立つ我は、側に侍る青の妖精を犯すようにけしかけた。こういった雌の妖精は斬るのもよいが、犯して得られるマナもまた格別の味がするものだ。我ほどの神剣ともなればどちらでも楽しめる。低位の神剣ではこうはいかない。
 しかし、ここでも我の行いは妨げられた。前回と違って妖精の方は抵抗しなかったというのに、契約者が我を拒んだのだ。どうも契約者は性行為に対して怯えが先立つらしい。男児であるというのに情けない限りである。
 しかもこの状況で世界の外から正確に働きかける存在があった。一度ならず二度までも我の邪魔をするか、忌々しきエターナルめ!
 その声を受けて契約者が一段と我を拒絶した。それ以上無理をしては消耗が激しい。口惜しいが、我は仕方なく矛を収めることにした。
 まあ、これで契約者も我が何を求めているか、大まかにでも理解できただろう。これを機に自身の行動を改めることを期待した。

 そんな前言を撤回したくなる。
 契約者め。理解して尚我の求めを拒むとは何を考えているのだ。我の力を満足に振るえなければ汝の求めも果たせなくなるのだぞ。奇跡を願ってまで救ったあの娘を守れなくなるのだぞ。
 与えた力には対価を。奇跡には相応の代償を。これはあらゆる現象に当てはまる根源の理である。それが分からぬほど緩い頭ではなかろう。だと言うのに、ぬるま湯に浸ったような呑気な表情を浮かべおって。
 満足なマナを得られぬ内は我も自粛せざるを得ない。契約者に力の流れを絶ち、少しでも消耗を抑える。神剣の力を引き出せなくなったことに契約者は戸惑っていたが、それがどうした。こちらからすれば死活問題なのだ。

 後日、契約者がラキオスの王族に呼び出されると、龍退治なる任務を言い渡された。龍が持つマナを解放し、国を潤すためらしい。
 賢しくも神剣の理に手を出した歴代の王には、契約者は手を出すことができない。一息に両断できるはずのにやけ面は契約者のみならず、我も大層苛立ったものだ。人の分際でああも付け上がれるとは逆に感心である。
 その日暮れの際、再び契約者に干渉して妖精を犯すようにけしかけた。契約者の膝の上には赤の妖精が一人。ご丁寧にもこやつを励まそうなどと考え、のこのこと尋ねてきたのだ。
 鮮度の良いマナが味わえそうだ、と思いきや、なんとこの妖精の声が我の声よりも契約者の内に響いた。驚いたことにその声をきっかけとして契約者は自我を取り戻してしまったのだ!
 我の油断か? いや、この赤の妖精には何か秘密がありそうだ。今後注意が必要かも知れぬ。

 それにしても契約者め、この期に及んでもまだ体を明け渡さぬか。呆れた精神力だが、それをもっと別の方面に活用できないものか。このままでは我もまともに力を発揮できぬ。
 こうなったら契約者がもっと弱っている時を狙うしかない。心身共に疲れ果てている時……そうだな、これから契約者は妖精共を引き連れて龍を殺しに向かう。あれほどの獲物となると先日とは違って一筋縄ではいかぬだろう。その帰り際に仕掛けるか。
 龍が相手ならば妖精だけでは敵わぬ。契約者は必ず我の力を求める。その強き想念に乗じてより深く魂を縛ることもできよう。戦いに疲れた時ならば妖精を犯すのも容易かろう。

 契約者よ、我は諦めんぞ。かつての力を取り戻すために、汝にも我が求めに応えてもらうからな。





   ***





 龍のいた洞窟を出ると、既に陽は沈み始めていた。傾いた日差しが周囲の森を紅く染め、昼日中とは違った様相を見せている。
 思っていた以上に洞窟の中にいたようだ。心躍る時間は早く過ぎるものだが、今回のそれは殊更に感じる。龍のマナという珍しいものを堪能できたこともあり、我は余裕を以ってそう思うことができた。
 もちろん、それだけで済まされることではない。予定通りに始めるとしよう。

(う……なんだ?)

 契約者の心に感覚を伸ばしていく。違和感を覚えた契約者は立ちくらみを起こしたように頭を押さえた。

「ユート様?」
「はは……ちょっと、疲れたかな……」

 契約者は平常を装い笑ってみせるが、妖精たちは顔を曇らせる。

「! どうした?」
「パパぁ……病気なの?」
「大丈夫だって……」
「全然大丈夫に見えないよぉ……」

 赤の妖精が縋り付いてきた。青の妖精も言葉が少ない割りにはどことなく気になる表情で近付いてくる。

「アセリア、ユート様は私が看ています。先にオルファを連れて報告に行ってくれませんか?」

 その時、緑の妖精が契約者を支えて口を開いた。何かにつけて契約者の面倒を看ようとするこの妖精、今回も例に漏れず、真っ先に名乗り出たな。予定通りだ。

 いくらか赤の妖精がもめたが、結局は納得したようで、青の妖精に連れられて城へ先行することにしたようだ。
 ちらちらと何度も振り返りながら走っていく妖精を、契約者は見送った。

 その姿が見えなくなった途端、張り詰めていたものが切れたのか、契約者はその場に崩れ落ちて膝を着く。息を荒げて頭を押さえる契約者に、緑の妖精は心配そうに寄り添った。

「ふぅ……っつ……ぅ、ハァ……」
「ユート様……大丈夫ですか、ユート様……」

 邪魔者は消えたな。さて……行くぞ、契約者よ!

【我の飢えを……満たせ…………契約を……】
「なっ、なんなんだ、これは……くぁっっ!」
「ユート様っ! ど、どうされたのですか!?」
【マナをっ! 我にマナをッ!!】
「干渉を受けてる……? それじゃやっぱり……」

 精神は押さえた。このまま、次は肉体だ。
 契約者の右腕を動かし、緑の妖精の肩へ伸ばす。掴むや否や、地面へ押し付けて馬乗りになった。

「うわぁぁぁぁぁ゙ぁぁぁ゙ぁ!!!」
「きゃっっ……くぅ! ユート、さま……」
「はぁーっっ! あ、はぁーっ!!」

 猛り狂え、契約者よ……そして求めよ、女の肉を!
 契約者の肉体と精神を同時に犯す。猛烈な苦痛と、耐え切れない飢えを感じていよう。何も捉えていない眼球が血走り、今にも弾けそうだ。
 目の前に妖精がいるぞ、喰らってしまえ! そしてマナを!

「はぁっ……エス、ペリアッッ!」
「だめです……ユート様、負けないで……!」
「はぁっ、っく……痛……辛い、んだ……」

 辛いであろう。何より、目の前の肉を貪れば飢えから解放されると本能的に理解して尚、己を抑えることはできまい。

「ぐあぁ……ッッ!!」
「くぅっ、ユート様……が、がんばって……ください……」
「あ゙っ……があぁぁっ!」

(ダメ、だ……俺は何を考えて……)

 余計なことを考えるな! 貴様はただマナを求めればよい!

「ぐはぁぁぁぁぁっっ!!」

 契約者は血を吐かんばかりに咆える。いい兆候だ、このまま……

「あがっ、ぐ、くあぁぁぁっ!!」
「ユート様……ユート様っ!!」

(気が……遠く、なる……)

 苦しいだろう、嫌になるだろう、何故我慢せねばならない、堪える理由がどこにある、貴様は求めてよい、心のままに、力のままに、汝の欲のままに。

「ユート様っ!!」
「う……ああ……」

(そうか、認めてしまえばよかったんだ……これは仕方ないことに。そうすれば……マナを……快感を……)

 そうだ、いいぞ。そのまま意志を我に委ねろ。そうすればついに――

 ――お――

 ――い――

 ――こ――

 ――ら――

 その時だった。不意に我の意識に触れるものがあった。人ならば、唐突に背後から声をかけられたに等しいだろう。無論我は神剣であるのだからこれはおかしい。そう、おかしいのだ。契約者の精神世界の中に、我と契約者の他に何かの意識が潜んでいたということなのだから!

 何だこれは……! いや、何なのだお前は……!
 驚愕のあまり動揺したことを認めざるを得ないだろう。つい契約者の手綱を緩めてしまった。

(ダメだっ、ダメだダメだダメだぁっっ!!)

 しまった、契約者が自己を取り戻したか!

「きゃっ……!」

 緑の妖精を突き飛ばし、転げ回って身悶える。契約者には何も見えていない。全神経を集中して我の干渉を撥ね退けようとしている。
 まずい、せっかくここまで進めたというのに……!

「いやだっ! 俺は、俺はっ、うぁぁぁぁぁっっ!」

 転がる内にぶつかった樹に縋り付くように体を起こし、その幹に何度も頭突きを繰り返した。
 やめんか、そうも脳を揺さぶると我まで乱れてしまう!

「くそっ、くそっ、くそぉぉぉぉっっ!!」
「ユート様、おやめください……それではあなたがっ!」

 突き飛ばされた緑の妖精が叫んだ。その声が聞こえたのか、契約者はふらつく足取りで幹から離れていく。
 よし、抵抗が止まった。この隙にもう一度……!
 そう思い、再び肉体を縛ろうとしたその時、

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 あろうことか契約者は鞘から我の剣身を抜くと、その切っ先を自分の胸に突きつけたのである。
 その時は、我は瞬時に手を引くことしかできなかった。動きを止めようにも、何かの弾みで操作を誤り、その剣で契約者を貫いてしまったらどうするというのだ。
 自分の剣で契約者を殺す。永遠神剣にとって、これほどの恥辱はない。

 ああ、認めよう。この時、我は恐怖した。
 異常なまでの抵抗を見せる契約者に。そして、異様なまでの存在感を発したあの声に。

 結局、あれから何もすることができなかった。
 契約者への干渉も、改めてする気にはなれなかった。龍を斬ってマナを得たとは言え、未だ自粛しなければ危うい身だ。そう何度も無茶を重ねるわけにはいかん。
 そんな理屈も、己を誤魔化すための言い訳に思えて情けなくなる。我は恐れているのか。契約者がああも拒むことを。再びあの声を聞くことを。

 夕陽が地平に沈み始めた。赤みを増した光が差す中で、契約者は荒い息を繰り返しながら横たわっている。その頭を、緑の妖精に抱えられるように抱き締められて。
 よほど恐ろしかったのだろう、目に涙を溜めたまま安堵の微笑みを浮かべて契約者の顔を覗き込んでいる。

「ユート様……あまり、びっくりさせないでください……はぁ、心臓が止まってしまうかと思いました……」
「……ごめん」

 この表情を見て劣情を催さぬとは……契約者の感性は一体どうなっているのだ?
 女を侍らせ、踏み躙り、その肉を貪ることは男子の本懐であろう。
 ましてや、相手は妖精に過ぎん。遠慮する要素は皆無だ。

「エス……ペ、リア……」
「ユート様……大丈夫なのですか?」
「ああ、変な頭痛はもう消えた……ん……でも、なんだったんだ、今のは……?」
「なんでもありません……なんでも……」
「早く、追いつかないと。オルファが心配してる……」
「はい……でも、もう少し休憩してからです」

 穏やかな声に促され、契約者は静かに眼を閉じた。





 またもや失敗に終わった。得られたのは龍のマナと、契約者が我を求めた言質のみ。その魂への縛りはさほど変わっておらぬ。
 より強く力を発揮できるようにはなったが、見合う代償は未だに得られず、先への展望も暗いまま。それどころか、今回耐え抜いたことで契約者に妙な自信を付けさせてしまったかもしれん。
 あれは我としても痛恨の失態であった。あんな見計らったような瞬間に声をかけられるなど誰が想像できよう……そう、あの声。
 あれの意味するところは明らかだ。
 図に乗るな――そんな警告である。

 何が起きている……あれは断じて契約者に属する存在ではなかった。あんなものが人間に連なるものであってたまるか。
 またか、またエターナルなのか、どこまでも邪魔しおって!
 何故こうも上手くいかぬ……我が一体、何をしたというのだ……





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第一章――弐

「んー」
【どしたの?】
「いや、城から町を見下ろしても特別いい気分になったりはしないな、と」
【それなんて七武海】

 あほらしいやり取りをしながらも、風を通じて眼下を探る作業を止めたりしない。
 興味をそそるもの、必須と思われるもの、片っ端から調べていく。
 とは言え、最初は面白かった作業も、ひたすら続けているとさすがに飽きが来る。

「やっぱりこれだけじゃ足りないな……」

 足をぶらつかせながら、匠はごろりと横になって呟いた。

 山を下りてすぐ見えた大きな町――城が見えたのでおそらく国の首都――に入ってから二日が経つ。
 イースペリアという名のこの国は、流通の様子を見る限り、交易は活発で経済的に豊かだ。統治者の手腕によるものか、国民の気風は穏やかで、匠も町を歩いている時に何度か親切にしてもらったことがある。

 ちなみに現在の匠は高校の制服姿ではなく、濃い色を中心とした動きやすいゆったりとした服装に変わっていた。
 これから行動するに当たって、真っ先に整えようと思ったのが恰好だ。それまで着ていたブレザーは、この世界の人々の服装に比べてかなり上等なものだ。生地の細かさ、縫い目の丁寧さ、ボタンなどの装飾、全てが段違いなのだ。さすがに目立つ。
 そんなわけで初日に手に入れたこの服はちゃんと服屋で買ったものである。ちょっとした裏技で金を調達したことを除けば何も問題はない。

 閑話休題。
 この世界に於いて、匠は完全に無知だ。世間に流れる噂どころか一般常識さえ知らない。風で周りを観察して覚えればいい部分もあるがそれだけで学べることではないので、どうしても人と話す必要がある。
 しかも、である。彼はこの世界の字を知らない。いや、店の値札とかに書いてある字を見たことはあるが、それが読めない。故に本を読むこともできない。【悔恨】の翻訳能力――契約者があらゆる生物とコミュニケーションを取れるように、全ての永遠神剣には未知の言語も自動で翻訳してくれる能力が備わっている――も、適用されるのは口頭での会話のみであり読解はできないのだ。
 公然と字が使われていることから、この世界の識字率はそれなりに高いのだろう。そんな中でいい歳をした匠が何度も「これ何て読むの?」などと尋ねていたら変な目で見られるに違いない。

 そんな事情があるので、この世界に来て最初にやることが『常識の勉強』だったのだが……現在、壁にぶつかっている状態である。

(さーてと、どうしたもんかね)

 昨日までは他人の会話を風で片っ端から拾いまくったり、風を通して人々の生活の様子を観察していたのだが、二日間の内の大半をそうしているといい加減飽きてくる。せっかく楽しむために訪れた世界だ。どうせ学ぶなら楽しく学びたい。

 そういうわけで、ちゃんとした会話ができそうな誰かを探しているのだが、これもこれで難航している。
 こちらの事情を知りつつ関われる人間がいるとは思えないし、誰彼構わず話しかけるのも難しい。匠は物怖じする性格ではないが、話すのが得意というわけでもないのだ。彼だって初めては緊張するのである。

 そういった考えの下、いい相手になりそうな人間を風を通じて探しているのだが、なかなか見つからない。やはりまずは一人で歩き回ってみるしかないか――
 その時、風の探査網が捉えた姿に目を瞠る。
 一人の少女だ。自分のほぼ真下にいる。町民のような簡素な服装で、その顔は焦りと緊張で満ちている。周りに、とりわけ後方に注意しながら早足で動いていた。

 がばっと勢いよく身を起こす匠に、【悔恨】は驚いて尋ねた。

【何々? 何か見つけた?】
「ああ、下、見ろよ」

 匠が腰掛けている場所のほぼ真下に、両開きの大窓から出られるバルコニーがあるのだが、そこへ【悔恨】が気付かない内にその少女が出ていた。
 手摺りに手をかけ、眼下に広がる城下町を涙ぐんだ瞳で見下ろしている。
 その姿を認め、匠が言わんとしていることを【悔恨】は察した。

「どうよ?」
【マーベラス!】
「だろ、だろ」
【行こ行こ!】

 会話の相手をあの少女に定めた匠と【悔恨】はその場――城の屋根から飛び降りた。
 風に意思を伝え、着地位置がちょうど少女の真後ろになるよう調節する。民家四つ分はあろうかという高さから落ちた匠の体は、着地寸前に二階から飛び降りた程度まで減速してから着地した。
 着地音に驚いたのか、勢いよく振り向く少女に匠は笑顔で話しかける。

「よう、助けがいるかい?」

 呆然とこちらを見る少女へ無造作に近付き、

「え……」
「ふーむ、状況を察するに、ここから逃げ出したいんだな? よっしゃ」
「ちょ、きゃあ!?」

 一方的に話しかけると、匠は断りなく彼女の体を抱え上げた。と言っても、こっそり胸や尻に手を伸ばしたりはせず、膝裏と肩を支える紳士的なお姫さま抱っこである。
 そこまでは少女も戸惑っているばかりだったが、その状態のまま匠がヒョイと手摺りに飛び乗るとさすがに焦りと驚きを露わにした。

「お、降りなさい! あなた、一体何をしようというのですか!?」
「あんまり騒いだらまずいんじゃないの? まあいいや、行くぜ」
「行くって、どこに――」
「あーらよっと」

【レッツゴー!】

 そんな彼女の様子をスルーすると、【悔恨】の声に後押しされるように手摺りを踏み切り、匠は虚空へ飛び出した。

「ひぃっ……!」

 少女は今度こそ驚愕ではなく恐怖を露わにし、ぎゅっと目を瞑って匠の首にしがみ付いてくる。

「おお、言われるでもなく捕まってくれるとは安心だ。そのまま大人しくしててくれよ」
「な、何を暢気なことを言っているのですか! このままでは地面に激突して――」
「しまわないよ」

 言うまでもなく、匠の体は緩やかに漂う風に乗り、落ちるどころか上昇していた。平行して自分たちの周りの空気を歪める。屈折率を変えることで周囲からは透明化し、同時にマナの変動を漏らさない小さな結界を張った。こうしてしまえば人間だろうがスピリットだろうが、直接ぶつかりでもしない限り空を飛ぶ二人はまず見つけられない。
 少女は目を丸くして周りを見渡すと、ようやく現状を認識したようだ。

「わあ……」

 その瞳を輝かせ、興奮が色となって顔から溢れているようだった。
 彼女の気持ちも分からないでもない。匠だって初めて風に乗って空を飛んだ時の――重力から解き放たれ、どこまでも広がる天空に舞い上がったあの感動は忘れられない。
 しかし、いつまでもこうして遊覧飛行を続けているわけにはいかない。

「おい、十分昇ったしここから下りるぞ」
「あ、はい」

 上がったからには下りなくてはならないのだ。

「町の端っこに下りるからな。しーっかり捕まってろよ」
「え、あの、すみません、できればさっきまでのようにゆっくr」

 にやりと笑った匠に不安を覚えたのか、少女は若干慌てたようにお願いしてきたが、もう遅い。
 体を傾けた匠は気流に乗り、町外れ目掛けて一気に滑空していったのだ。

「きゃああああああ!!!」

 猛烈な加速に耐え切れなかったらしく、少女が絶叫する。それが聞こえているにも関わらず、匠は重力が働くままに加速し続けた。





 城下町の端、正確には町を取り囲む城壁と古びた倉庫の間に向かってひたすら加速していた二人だったが、地上の石畳に激突する寸前に逆巻く風が二人を優しく包み、匠は軽やかな着地を決めてみせた。既に周囲に人がいないことは風で調べてある。

「ほい到着っと」
「は、はひ……」

 匠の腕から下ろされた少女はそのまましゃがみ込んでしまう。

「おいおい、しっかりしなよ。手ぇ貸そうか?」
「い、いえ、大丈夫です。立てます」

 どうやら先ほどの飛翔が衝撃的すぎて腰が抜けたらしい。しかしガクガクと笑う膝を抑えて何とか立ち上がる気概は大したものだ。

 ところで、先ほどから便宜的に少女と呼んでいるが、年の頃は匠とそれほど変わらないのではないかと思われる。おそらく二十歳前後あたり……振舞い次第では十台の末でも通じる。まあ見た目は若いので少女と呼んでも問題はないはずだ。
 質素な白いワンピースに身を包み、艶のある黒い髪を背中まで伸ばした美少女なのだから問題はない。ないったらない。

「大丈夫だって言えるなら平気か。じゃあ自己紹介といこう」
「あの、すみません」
「ん?」
「聞かないのですか?」

 どことなく不安そうに聞いてくる少女を見て――匠は返事の前にある術を発動した。

 肉体の内から繋がるマナ、少女の周りにあるマナ、そして少女自身のマナを見抜き、弄る。
 風術を見れば分かるように、神剣魔法に詠唱は絶対必要というわけではない。言葉を紡ぐことなく、ただ己が意のみを以ってマナと通ずる。真に必要なのは、現実に囚われない明確なイメージと、現実を覆さんとする強き意志。

「何を?」

 返事に乗せて思念を送り込む――『疑問を流せ』と。

「……いえ、聞かないならそれでいいんです」

 逆に聞き返した匠の言葉に、少女は不可解な顔をしながらも疑問を押し殺すように頷いた。
 成功――内心でほくそ笑みながら、何事もなかったように匠は尋ねる。

「まあいいや。俺の名前はタクミ。お前は?」
「私は、アズマリアと言います」
「アズマリア、か」
「はい」

(あずまりあ、アズマリア、アルファベットにするとAzmariaってところか)
【綺麗な名前じゃん。マリアって聖母の名前でもあるんでしょ?】
(地球ではな。しかし俺としては……)

「なあ、リアって呼んでいいか?」

【ちょ、おま、いきなりあだ名!?】
(そんじょそこらのやつにはできないことを平然とやってのける男。それが、俺)
【痺れも憧れもしませんから!】

「……へ?」
「俺としては、アズマリア、だと呼ぶ時にちょっと仰々しく感じるんだ。リアってあだ名なら通じる部分もあるし、だめかな?」
「え、や、す、り、と」

 さすがに意表を突かれたのか、少女ことアズマリアは妙な声を出す。
 と、そこで匠は首を捻った。何故か彼女はその場にしゃがみこんでおり、頭を抱えた体勢で呆然とした表情をこちらに向けていたのだ。
 何でそんな格好をしているのか、疑問を口に出そうとしたところで彼女は急に立ち上がる。

「ええいいですよはい私はリアということでそれでお願いします!」
「? ああ」

 まるで何かを誤魔化すようにまくし立てるアズm、いや、リアの気迫に圧されて、匠は何も言わず納得することにした。

「では私も、あなたをタクと呼んでもいいですか?」
「なんだ、対抗して俺の名前を削るってか? 名乗ったばかりの人の名前をわざわざ削るとは横着なやつだな」
「会ったばかりの女の子にあだ名を付ける人に言われたくありません」
「女の『子』?」
「……なんですかその目は」
「いーえー、べっつにー?」

 リアのジト目を無視して明後日の方を向く。年頃の娘らしく歳を気にしているようだが、そういった心の機微はAKYの匠にとってからかいの種でしかない。

「とにかく――はじめまして、リアと呼んでください」
「ん。俺はタクミ、タクって呼んでくれ」

 リアが笑顔で差し出してきた手を、同じく笑って握り返す。
 どうやら彼女も複雑な事情を抱えているのだろうが、面倒ごとはむしろ望むところ。イベントに騒動は付き物だ。しかも関われた相手がこれほどの美少女なのは望外の幸運である。

(何はともあれ――)

 ――話し相手、ゲット。





   ***





 さて、無事に話し相手を得られたわけだが、ただ話すだけではつまらない。せっかくなので連れ立って町を歩いてみようと思い、リアを誘うことにした。
 名目は、初めて訪れた町の案内役としてである。

『この後って予定あるか? なければ町を案内して欲しいんだけど』
『案内ですか? ですが、私も町のことをよく知っているわけでは……』
『だいじょぶだいじょぶ、大まかにでいいんだよ。俺ってここに来るのは初めての田舎者なんだ。リアが分かる範囲で構わないからさ』
『では、僭越ながら、引き受けましょう』

 そんな会話をしたのが三十分ほど前のこと。
 倉庫の裏から出た二人は大き目の道を目指して歩き、多くの人で賑わう市場に辿り着いていた。

「ここを通るのは二回目だけど、すげえ人の数だな」
「私も、こんなにたくさんの人がいるとは思ってませんでした……」

 そして数歩歩く度に足を止め、屋台や店先に注目する――実は城下町をまともに歩いたのはこれが初めてである――匠に、リアはその都度丁寧に説明してくれている。
 その『御上りさん』ぶりが微笑ましいのか、時折クスクスと笑みを零すリアだったが、前をよく見ていなかったのか、横を通ろうとしていた人と肩がぶつかってしまった。

「きゃっ――」
「おっと」

 意外と強くぶつかってしまったようでバランスを崩して転びそうになったが、匠が素早く手を伸ばしてリアの体を支えてやった。

「あ……ありがとうございます」

 少し顔を赤らめながら礼を言って、リアは自分の足で立つ。
 そこで終わらせたりはしない。チャンスは逃さず活かさなければ。
 リアが自分の足で立てても、握った手を離さない。どうしたのかと目で問う彼女に、匠は何でもないように言う。

「この方が安心だろ? 案内させてる俺のせいで怪我でもされちゃ悪いからな」

 そして再び思念を送る――『安心しろ』と。

 数秒の間を置いて、リアは勢いよく俯いた。もちろん至近距離にいる匠にそんなことで顔色を隠せるわけがなく、耳の先まで真っ赤に染まっているのが見える。
 成功――またも匠は表情に出さず、心の中でほくそ笑む。

 そうやって手を繋いだまま歩き、広場で見つけたのは見世物をする一団。
 街頭パフォーマンスみたいなものだろうか。日本でも、都心の片隅などで観客を集める者もいることだし、国の中心だろう城下町でこういうことをやるのも不思議ではないのかもしれない。その証拠に、周囲には自分たちと同じような観客が集まっているが、彼らには疑問に思っている様子がない。これも日常の一部ということなのだろう。

「おー、やるもんだな」

 不安定な足場でバランスを取りながら、曲に合わせて御手玉をしている姿を見て一言漏らす。複数のことを同時にこなす難しさを知っている匠は、感心しながら見物した。
 その時、横にいるリアが表情を強張らせた。その視線は見世物に向けられていない。不思議に思って口を開こうとしたら先に話しかけられた。

「あの、タク、移動しませんか?」
「どしたよ?」
「いえ、その、えっと」

 これまでと急に変わった態度に疑問を覚えたが、彼女はもじもじするばかりで要領を得ない。匠が問いを重ねようとしたところで、

 ――くきゅ~

 鳴り響いた音は異様に耳に残った。
 音の出所は探すまでもない。何せ目の前でリアが慌てたように自分のお腹を押さえたからだ。口の端が釣り上がるのを止められず、遠慮のないニヤニヤ笑いを向ける。

「そーかそーか。思ったより自己主張の激しいやつだな」
「ち、ちがっ! 私は、その、ただ」
「はいはい、俺も小腹が空いたよ。何か食べようか」
「だ、だから違うんです! そんな目で見ないでください!」

 顔を赤くして必死になるリアの言葉を流し、彼女の手を引いてこの場を離れることにした。
 リアが空腹を訴えようとしたのではないことは分かっていたが、なんか面白いのでこのままで通すことにする。
 匠と【悔恨】だけでなく、こちらに視線を向けている周囲の人間も似たような思いを抱いているのだろう。即ち、萌え。

【天然なのかな?】
(たぶん)
【リア……恐ろしい子!】





 途中、果物屋に立ち寄って目に付いた果実を二個だけ買い、二人は高台にある公園に訪れた。
 公園に備え付けてあったベンチに深々と座り込む匠の横に、リアも静かに腰掛ける。

「いやー、楽しいね」
「はい……ですが、少し疲れました」
「もう疲れたのか? まだ歩き出して一時間かそこらだろ」
「あなたが引っ張り回したせいで気疲れしたんですっ」

 広場を離れてから相変わらず市場を歩き回ったのだが、何故か先ほどに比べてリアは酷く緊張していたらしく見るからに疲れていた。しかしそんなリアの様子を匠は華麗にスルーした。
 突っ込むと面倒なことになりそうだったから、ではない。出会ったばかりで深く関わると面白みが薄れるからである。

「ところでタク、コチの実を買ったのはいいのですが……」
「ん?」
「どうやって食べるのですか?」
「こうやって」

 手に持った実を服で軽く擦り、そのまま噛り付く。硬めで瑞々しい食感に、爽やかな甘みがある果物だった。皮も噛んでも特に苦味はなく、すんなり飲み込むことができる。
 林檎の皮と梨の果肉と言えば分かりやすいだろうか。甘い物好きの匠は一口で気に入った。
 だが、匠が食べる姿を見てリアは酷く驚いたらしい。

「こ、このまま食べるのですか?」
「なんだ、皮は嫌いか? 別に毒ってわけじゃないだろ。これくらい普通だ」

 匠としては特に意味も込めずに言ったのだが、リアは特別な何かを感じたようだ。意を決したように手に持った実を見つめると、皮を服で擦り、大きく口を開けて勢いよく噛り付いた。
 が、勢いがよすぎたのか、歯を実に食い込ませたまま口を閉じられなくなった。

「あ、あぅ! うあううぅ!」
「慌てるな。噛み切れない時は実の方を動かすんだ。これはけっこう硬いからパキって割れるだろ」

 涙目になるリアの横から手を伸ばし、彼女がくわえているコチの実を動かす。案の定あっさり割れて、辛うじて口に入る大きさにはなった。
 頬をパンパンに膨らませて懸命に咀嚼する姿はまるでハムスターのようで実にかわいい。

【く、は……萌えっ】

 頭の中で【悔恨】が悶える声が響くのをよそに、匠も再びコチの実を齧る。近くにゴミ箱がなかったので、勢いで種もへたも飲み込んでしまった。
 食べ終わって果汁でべたつく指を舐めて服の端で拭いたところで、リアはどう処理したのかと気になって横を向くと、なんと彼女も舐めた指を服で拭いているところだった。しかも種やへたも見当たらない。
 ……食べたのか。どっちも飲み込んだのか。

(こやつ、見かけによらぬわ……!)

 まさか実といっしょに食べてしまうのが一般的なわけではないだろう。匠自身は気にしない性格だから飲み込んでしまったが、リアまでそうだとは思えない。現に皮を食べることにさえ驚いていたのだ。
 できる――若干の戦慄を覚えながら匠は口を開いた。

「うまかったな。今まで食べた果物の中で上位三つに入るぞ」
「本当ですか? 私、このコチの実が大好きでよく食べるんです。気に入ってもらえて嬉しいです」
「コチの実っていうのか。今まで住んでたところになかったな」
「タクはどこからやって来たのですか? イースペリアは初めてだと言っていましたが」
「俺? あっちの方」

 西の山脈の方を指差す。この世界にやって来て初めて降り立った場所がその方向にあるので、嘘は言っていない。

「ひょっとして山越えしてきたのですか?」
「まあね」
「……その格好で?」
「まさか。持ってきた荷物のほとんどはこの町で売ったんだよ。これからの資金源にしようって思ってたからさ」

 もちろんそういった事情を知らないリアは、匠が山脈の向こうからやって来たのだと脳内補完をしたようだ。
 そんなリアに匠は平然と話を合わせる。持ってきた荷物、つまりそれまで着ていた服は町で売ったのではなく処分したのだが。

「そうだったんですか……では、タクは出稼ぎのためにソーン・リームを出たのですか?」
「いや、違う。俺には稼ぎを待ってる人なんていないんだ」
「っ! すみません、嫌なことを……」
「いーよいーよ。要するに自由ってことだからね。で、ここは一つ旅でもしてみようかと思ったんだ」
「旅、ですか」
「ああ、俺はこの世界のことを知りたいんだ」
「世界……」
「そ。俺はまだ何も知らないようなものだからさ。この世界での自分のやるべきこととか。とりあえず、やりたいことの一つとして旅をしようって思ったわけ」

 重ねて言うが匠は嘘は言っていない。今後の動きを決めるためにも、この世界のことをきちんと知らなければならないのだ。それは常識に始まり、世間の噂、各国の政治など必要な情報は数多い。それらを学ぼうとすることを『旅』と表したのも、あながち外れていないだろう。

「私も――」

 そんな匠の言葉に何かを感じ入ったらしいリアがおもむろに口を開く。

「私も知りたいです。世界の広さ、自分がいることの意味、色んなことを」
「そっか……じゃあ、俺はリアより一足先に色々見てくるよ」
「ふふ、ちょっと羨ましいです」
「そんで、次に会った時に、俺が見てきたものをリアに教えてやるよ」
「え?」

 さらりと放たれた匠の台詞が意外だったのか、リアは変な声を出してこちらを見た。

「なんだよー、リアはこれっきりの付き合いだと思ってたのか?」
「あ、ですが、私たちは……」
「ふっふっふ、逃がしはせぬぞ~、おぬしは既に運命に囚われておるのじゃ~」
「ちょ、やめてください、手の動きが怪しいですよ」

 両手を向けて指をワキワキと動かす匠がかなり気持ち悪かったようで、リアは座ったまま大きく身を引いた。
 思うに、こういう怪しい動きを見せられて警戒しない女性はいないのではないだろうか。

「何にしても、世の中が平和な内にささっと回っちまおうと思うんだ。そんなに長くはかからないよ」
「分かりました。タクの漫遊譚を楽しみにしていますね」

(まんゆうたん……難しい言葉をさらっと使うな)

 そういった難しい言葉を日常的に使う環境に身を置いているのだと思われる。自分の見立ては間違っていなかったことに匠は満足だった。

 そもそもリアに目を付けた理由は、多分に匠の個人的な見解と趣味が含まれる。
 その軽装と城内での拙い動きを見た限り、侵入した曲者とは思えなかったので、どこぞの貴族の御令嬢だと匠は予想した。
 城内に町民の格好でいて、しかも周囲を警戒しながら早足で動いていた。これだけでも面白そうな匂いがぷんぷんすると言うのに、バルコニーに出た途端に涙ぐんだのである。楽しもうと考える匠が興味をそそられない理由はない。
 決め手となったのは彼女の髪だ。綺麗なロングヘアーは正義――本当に趣味でしかない。

【何にしても、黒髪ロングの美少女とお知り合いになれたのはラッキーってことだよ、うん!】

 訂正。匠だけではなく【悔恨】の趣味でもあったようだ。

 それはさておき、思考を巡らせる。
 市場の雰囲気を見た限り、世の中にはそれほど大きな乱れはないようだ。
 敵対国間の緊張はあれど、人々の表情は穏やかで、乱世を思わせる雰囲気はどこにもない。

 戦争とは、様々な方面で影響を及ぼすものである。
 社会が繁栄するためには貿易は不可欠であり、その様子を表す物価を見ればおおよその傾向が分かる。妙な奇抜さを狙っていたりぼったくりでもない限り、商品の価格が適正に近ければ、それは市場が経済的に安定しており、戦争の影響を受けていないことを意味するのだ。
 先ほど匠が買ったコチの実など、硬貨一枚で二個買うことができた。日本で考えれば、握り拳大の小さな梨二個を百円玉一枚で買えた、と言い換えれば分かりやすいだろうか。安いように見えればそれだけ多く入荷していることになるので、物資の流通もスムーズなのが分かる。
 つまり今のところはどの国も、睨み合っているけど動く様子はない小康状態だということだ。

 近い内に戦争が始まるのは間違いない。ならばその前にせめてイースペリアの周辺の国の情報を集めておきたいところだ。ここは大陸の北寄りに位置する国らしいので、まずは大陸北部を歩き回ることにしよう。
 そんな風に脳内で今後の方針を考えていた時である。 

「すまない、少しよろしいか?」

 きびきびとした動きで公園にやってきた軽鎧姿の男――おそらくこの町の警備兵――が話しかけてきた。
 青と赤の二人のスピリットを伴っていたが、匠たちに話しかける前に少し離れた場所に待っているように言い含めたようで、スピリットたちはやや離れた所で待機している。

「何かご用?」
「うむ。実は人を探しているのだ。高貴な姿をした女性を見かけなかっただろうか? 美しい黒髪を伸ばしたお方なのだが」
「兵士ってそういうこともすんの? 知らなかったな」
「はは、実質的な防衛はスピリットの仕事だからな。我々が他の仕事をするのは当然だろう」

 兵士の言葉を聞いて匠は少し驚いていた。表情や口調から察するに、彼はスピリットを特に蔑視している様子がない。

 戦いを本領とするスピリットは、一般人からは非難される傾向にある。それはさほど不思議なことではない。どんな世界であっても戦争の尖兵となり、戦いのみに生きることが常識として叩き込まれるスピリットは、絶大な力を持つが故に力を持たない人からは忌避される。
 当然だ。持たざる者は、持つ者を決して理解できないのだから。そういった理解できないものをただ『怖いから』というだけで排斥するのが人の性なのだから。
 しかしこの兵士にはそんな雰囲気が感じられない。匠が思う常識とこの世界の常識にはズレがあるようだ。いずれその辺りの実情も調べておこう。

「それで、どうだろう。見なかっただろうか? 君とそう変わらないはずの年齢……うん?」

 そこまで言ったところで兵士は匠の隣で俯いたままのリアに目を向ける。
 美しい黒髪、そう変わらないはずの年齢……ばっちり当てはまる要素があった。しかも兵士の視線を感じてないわけではないだろうに、彼女は顔を上げようとしない。
 つまり、そういうことなのだろう。

(しゃーない、ここで台無しにされたくないからな)

「なあなあ、兵士さん」
「ん?」

 二人の間に割り込むように顔を出して注意を引く。今度はリアではなく、この兵士のマナを見抜き、弄る。

「別に、俺たちのことなんて気にしないでいいだろう?」

 言葉に乗せて思念を送る――『気にするな』と。

「……そうだな。気にしないでいい」

 成功だ。呆けたように、しかし確かな意識を持って兵士が復唱する。

「ここら辺を探さなくてもいいんじゃないか?」

 さらに続ける――『他所を当たれ』と。

「……そうだな。ここら辺を探さなくてもいい」

 またも兵士は復唱する。既にリアのことなど眼中にない。
 そこで気付いたが、隣のリアが俯かせていた顔を上げていた。呆然とこちらを見ているが、今作業を中断するわけにはいかない。フォローは後回しだ。

「もう行っていいか? 俺たちデートの最中なんだ」

 最後の思念を送る――『見逃せ』と。

「……ああ。行っていい」

 最後まで成功すると、匠は重い腰を上げて「行こうぜ」とリアを促す。はてなマークを浮かべていたリアも慌てて立ち上がり、二人は悠々と公園を出た。

「仕事熱心な兵士だったな」
「え、ええ」

 戸惑った顔でちょこちょこ振り返るリアを他所に、匠は堂々とした態度だった。己の術の効果に絶対の自信を持っているのだろう。兵士が疑問を持たずこの場を立ち去ると確信しているのだ。

「でも空気は読めてなかったな」
「え?」
「デート中の男女二人組に声をかけるなんて無粋もいいとこじゃないか」
「で、デートってそんな……!」

 匠の言葉を聞いて、途端にリアが顔を赤くした。
 おそらく匠の言葉に照れたのだろう――それを見逃す匠ではない。
 可能な限り素早くリアのマナを見抜く。再び弄るために彼女の内部へ感覚を伸ばす。

「それじゃ、デート、の続きと行きましょうか、お嬢さん?」

 わざと強調した言葉に載せて思念を送る――『意識しろ』と。

「え、ええ、そうですね、よろしくお願いします!」

 にやにやと笑いながら放った匠の言葉を聞いて、リアは顔を赤くしながらも恥ずかしさを振り切るように大きな声で返した。

 とりあえずアクシデントは乗り切れた。やはりこういったイベントは一つ一つ重ねていくからこそ面白い。
 匠は好物を食べるのは先でも後でもない。端から少しずつ食べてなるべく長く味わうタイプなのである。





   ***





 その後、二人は再び町へと繰り出した。
 もう一度市場に行って、屋台覗きを続けたりしてリアを質問攻めにしたり。
 そこで彼女に買ってもらったネネの実のジュースは、桃とそっくりの味がした。
 アクセサリー屋に並ぶ品は、精度は地球のものには及ばないが、どれも目を楽しませる。
 そうやってあちこちを歩き回った。

 そして―― 

「とーちゃくー」

 再びリアを抱えて城に戻ったのは、太陽が沈み始めた頃だった。
 やはり城に住んでいるらしく、送り先を聞いたら出た時とは違うベランダを指定してきた。同じように姿を眩ませる風で身を包み、空を飛んでここまで来たのだ。

「ここでよかったんだよな」
「ええ、ありがとうございます」

 出発時ほどのスピードはなかったこともあり、匠の腕からリアは危なげなく降り立った。
 心構えもできていたのだろう。むしろ楽しんでいたのかもしれない。
 しかし……唐突に空に目を向けてボーっとしているのは如何なものだろう。

「どうかしたか?」
「ひゃい!? な、何でもありませんよ!?」

 声をかけてみても、びくりと肩を震わせるだけで何でもないと言う。何か妄想でもしていたのだろうか。
 それはそうと、忘れない内に仕上げを施すことにする。

「そうそう、今さらだけど一つお願いがあるんだ」
「何ですか?」
「俺のことは誰にも言わないでくれよ。バレたら面倒なことになるし」

 この部分は念入りに思念を送る――『誰にも言うな』と。

「分かりました。今日のことは私の胸にしまっておきます」
「ありがとう、助かるよ」

 これも成功――匠は安堵の笑顔を浮かべた。

「じゃあ俺はもう行くぜ。今日は楽しかったよ、ありがとな」

 やることは全て終えた。疲れが溜まっていたこともあり、すんなり別れようと踵を返す。しかし、ベランダの手摺りに手をかけたところでリアが呼び止めた。

「あの、タク!」
「ん?」
「私も、とても楽しかったです。ありがとうございました……さようなら」

 振り返った匠が見たのは、手を少しだけ上げて寂しげに微笑むリアの姿。
 そうじゃない。別れの時はそういう表情じゃなくて――

「違うだろ」
「え?」
「こんな時はこう言うんだよ――またな」
「……っ! はい、またいつか!」

 匠の言わんとすることを理解して、リアの顔がパッと明るくなる。
 勢いに任せて、昼に使ったものと同じ弄りを追加。

「ああ、またデートしよう」
「でっ……!」
「なっはっは、それじゃ」

 表情は変えずに顔色だけ赤くなるリアを見て匠は満足する。そこから後ろ向きに軽く跳び、手摺りに腰掛けると勢いのままに体を倒してベランダから落ちた。
 もちろんそのまま落下するのではない。風を操作して自分の体をベランダの真下に移動させると、ベランダの底に両足を当てる。足の裏に集中させたマナに『吸着』の意志を込めて、それを維持すると、匠はまるで忍者のようにベランダの底に立ったのだ。

「タクっ!?」

 リアが慌ててベランダから見下ろしてくるが、その視界に匠の姿は移らない。さぞかし不思議に思っていることだろう。分からない者からすれば瞬時に消えてしまったように見えるはずだ。
 そしてリアに見つからないようにベランダの底を歩き、姿が見えない角度に移動すると再び風に乗ってその場を離れた。

 何故わざわざこんな風に姿を隠したのか……なんのことはない。ただのかっこつけである。
 しかしかっこつけを侮るなかれ。別れが印象的であれば相手のことを忘れられなくなるものだ。リアの意識に強烈なインパクトを与えただろう。





 で、その後。

「あー疲れた」
【お疲れさま。充実した一日だったじゃないのよ】

 大胆にも、イースペリア城の最も高い屋根でぐったりと横になりながら匠は独り言つ。
 【悔恨】の労いの言葉を聞いて、目元を手で押さえながらも小さく笑った。

「まあ、成果は十分だな。今日だけで色んなことが分かった」
【私としてはモーナムの味も知りたかったんだけどね】
「うるせー。緑の野菜にはいい思い出がないんだよ。ピーマンとかブロッコリーとかニラとか、嫌いなものは嫌いなんだ」
【あはは、リアが買おうとしなくてよかったね。あの子の好物だったら匠にも勧めてきたよ】
「リアか……まあ、あいつと仲良くなれたのは上々だろ」

 本来なら、リアがあそこまで匠に心を許すことはなかっただろう。切羽詰っている状況で頼ることになったとは言え、今日初めて顔を合わせた人間をすぐに信頼できるほど単純でいられる歳ではなかったはずだ。
 それが何故あのように好意的に接してくれたのか。

 フォースと呼ぶ力がある。目には見えないエネルギーを感じ取り、制御して操作する能力のことだ。
 無論ここで言うエネルギーとはマナのことであり、永遠神剣の担い手であれば須らく身に付く能力なのだが、それを発展させたものの一つとして、このエネルギーの流れを読んで操ることで人の心の動きを誘導する心操作マインドコントロールが可能となる。
 匠が昼間、公園で尋問してきた兵士に使った力だ。軽い調子で言ったあの言葉を兵士の心に植え付け、その言葉の通りに行動させるように思考を促したのである。だからこそあの兵士もあんなにあっさりと帰ったのだ。

 その心操作を、匠はリアにも行っていた。
 聞かないのかと聞いてきた彼女に逆に問いかけることで疑心を有耶無耶にし、安心だと口にした言葉を彼女の心に潜り込ませて本当に安心させた。
 挙句の果てにデートだと強調する度に、彼女の心を揺らして恋心をくすぐったのだ。
 最後に、二人が交わした約束という秘密の共有によって連帯意識を助長させ、匠は仲間だという考えを強く植えつけた。
 このように何度もフォースを使うことで、リアが抱いた印象を好意的なものへ変化させた……身も蓋もなく分かりやすく言えば、惚れさせたのだ。

【けどさ、ここまでする必要ってあったの? もうちょっと軽めでもよかったんじゃ】
「この国に長居するわけじゃないしな。いざ頼ろうとした時に、忘れられてた、だと意味ないから。後はこの繋がりをどんなタイミングで生かすか、だ」

 どんな世界だろうと、そこが人の生きる世なら幅を利かせるのは金とコネである。ある方法によって金の問題はどうとでもなる匠だが、コネの方はそうもいかない。匠はそのコネこそが欲しかった。
 いずれはこの世界の歴史に関わる予定だが、物語の主要人物より先にゲストが出しゃばるのはよくない。それは避けたい匠は、永遠神剣の力を大っぴらには使わず『ある程度の立場にいる者』との個人的な繋がりを作っておきたかった。そこでリアである。
 私的な理由で外に出たがっているお嬢様を懐柔しておけば、いざという時に使えるカードになり得る。使うタイミングを間違えなければ大きな効果を発揮するだろう。

 知る人が知れば、外道の所業だと匠を謗るかもしれない。
 しかし匠は罪悪感を覚えたりはしなかった。

 彼はエターナルだが、元は普通の人間である。だからこそ感情の動きを軽んじていない。
 多くの神剣が運命操作によって自分の契約者を引き寄せるが、何もかもが定めた通りに動いてくれたりはしない。生きる者には必ず感情があり、それが揺らぐと途端に自分勝手に行動するのだから。
 なので、自らの望む運命を引き寄せるには感情も操作する必要がある。その典型的な例が悠人と瞬だ。互いを憎み合わせることで、憎悪を抱くことを疑問に思わせていない。
 以前、匠が内心で吐き捨てた『躾のなってない』という言葉は、憎悪の感情に向けられたものであり、感情を操ること自体は否定していないのだ。

【いやー、それにしてもいいもの見せてもらったよ。初心な女が照れて赤面する姿は萌えだね! しかも長い髪が俯いた表情を隠して、その隙間から見える真っ赤な頬っぺたと言ったら……これはもう惚れるしかないっしょ!】
「お前は満足でも、俺はそれどころじゃなかったよ……だー、頭いてー」

 上機嫌に捲くし立てる【悔恨】をよそに、匠はグロッキーであった。
 慣れない真似をして気疲れしたということもあるが、本当に頭痛がするのだ。

 このフォース、扱いが恐ろしく難しい。何しろ空間に浮遊する手付かずのマナと違い、人間の魂に相当するマナを弄るという非常に繊細な操作なのだ。
 匠の技量を以ってしても操るのは至難を極めるものであり、半日もの間ずっと気を張って何度も行使したことで彼の脳はきりきりと痛んでいた。使えばこのように必ず頭痛に悩まされるのは分かっていたのであまり使いたくなかったのだが、今日一日の辛抱と思って頑張ったのである。

 そんな匠だが、こうして城の屋上でぐでーっとしている今も完全に気を抜いてはいない。風によって周囲の様子を探る程度の警戒はしている。城には多数のスピリットが常駐しており、神剣の気配がすれば文字通り飛んでくるだろうから。
 【最後】の存在はこの世界に来た時から隠しっぱなしだが、今はさらに念を入れて【悔恨】の力を大幅に押さえ込んである。現在の匠はそこらのスピリットよりも弱い力しか引き出せないが、その代わり一般人の如く薄い気配しか纏っていない。直接目視されなければ見つからない自信があった。
 それでも絶対とは言い切れないのでこうして警戒を続けている。この状態での戦闘はさすがに御免だ。
 ――と言っても、別に今の状態で戦っても負ける気はしないのだが。

 そうやって中途半端にボーっとしていると、屋根のすぐ下、城の最上階に二つの気配を風が捉えた。巡回警備中の兵士か。
 特にやることもなかった匠は彼らの会話を盗聴しようと、風に耳を傾けた。

 ………………
 …………
 ……

「よう、お疲れ」
「ああ……」
「どうした? なんか暗いぞ」
「戦争、起こるんじゃないかと思うとさ……」
「ああ、最近ラキオスとバーンライトの緊張が高まってるらしいしな」
「たぶんダーツィも動くんだろ? イースペリアは大丈夫かね……」
「辛気臭いこと言うなって。俺たちには女王様がついてらっしゃるじゃないか」
「……そうだな。俺たちには陛下がいらっしゃる」
「そういうことだ。心配ならスピリットたちに喝を入れに行ったらどうだ?」
「差し入れでも持って行けと? まあ考えておく」
「はは、じゃあな、お先」
「あいよ、また明日」

 ……
 …………
 ………………

 話はそこで終わり、二人は別れていった。

「この国の女王は随分と人望があるんだな」
【町の様子を見れば頷けるよ。みんな笑顔で暮らしてるもん。妖精に対しても寛容らしいし】
「それもそっか。にしても……」

 先ほどの男たちの会話や、これまでに風で拾った町民の声を思い返す。

「その女王、名前は何ていうんだろうな?」
【みんなして『女王様』とか『陛下』とか言ってて、肝心の個人名が分かんないね】

 世間の情勢から国産のスープまで、今日一日で実に様々なことが学べたわけだが、匠も【悔恨】も、未だにイースペリアを治める者のことが分からないのだ。判明しているのは、女王と言われるだけあって性別が女であることだけ。

 リアに聞くにしても、匠はあくまで『初めてイースペリアに来た田舎者』を装っていたのであり、この世界の一般常識にあまりに疎いとさすがに誤魔化し切れなくなりそうで憚られた。
 いくらフォースで人心操作が可能だとは言え、匠の力は万能ではない。使う度に頭が痛む(比喩ではなく本当に痛い)能力なのだし、怪しまれるような行動は自重したのだ。

「気になるな」
【気になるね】
「【う~ん」】

 二人揃って漏らした疑問の声は、誰に聞かれるでもなく夜風に溶けて消えた。





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第一章――壱

「はあ、はあ、はあ……!」

 急停止して角を曲がる。柱の陰に隠れて荒げる息をなるべく押し殺すが、ドクドクとうるさい鼓動のせいで上手くいかない。

「どっちに行った?」
「こちらの方に来ているのは確かです。この階からは動いておりません」
「よし、お前は向こう側に回れ。私はここから先を探す」

(こっちに来る!)

 離れた所から聞こえてくる会話に焦りが募る。
 ここは自分の家(と言うほど小さくはないのだが)のはずだ。なのにどうしてこうも緊張しなくてはならないのか。
 決まっている。自分の行動がそのまま答えだ。

 失敗は許されない。この日のために色々と準備してきたのだ。普通の女の子に見える服や靴を調達して、普通の女の子のような話し方もこっそり練習した。町で怪しまれないように普通の女の子が持つくらいの小銭もちゃんと用意したのだ。準備は完璧だった。これで失敗しては自分が許せない。
 しかし、いざ決行してみるとあっさり動きがバレてしまった。やはり素人が考えた脱走計画は本職の警備兵には通用しないのか。
 幸いにも顔は見られていないのでまだ不審者として追われているだけだが、このままでは時間の問題である。

 前方に注意しながら後方に気を配る。二つのことを意識しながら動くというのはとても疲れるものだと思いながら、できる限り静かに足を速めた。
 ふと、後ろから響いていたと思っていた足音が前からも聞こえてくることに気付く。

(挟まれた!?)

 さっき聞こえた会話を思い出す。
 向こう側に回った者と後ろの者が両側から押さえようとしていたのだ。そんな簡単なことにも気付かなかった自分に歯噛みする。しかし悔やんでいる暇はない。どこか逃げ場所はないか。

 見回して視界に入ったのは、両開きのガラス扉とそこから外に出られるバルコニー。前後から迫る追っ手の目からは逃げられるが、ここに出てしまえば今度こそ逃げ場はない。袋小路に自分から進むようなものだ。
 だが、他に近くに入れる部屋はない。ここしかないのだ。
 急いでバルコニーに出る。すぐに扉を閉めるが、そんなことは気休めもならない。行ける場所がここしかないなら追っ手もすぐここに気付くだろう。

 もはやここまでか。諦めが心を過ぎる。
 俯けた視線を上げると、眼下に広がる城下町――国名と同じ名前の首都イースペリアが見えた。
 愛する国。守るべき民。そして一度も歩いたことのない町。

(今日こそ行けるはずだった……行きたかったのに……ずっと楽しみに、していたのに……)

 滲みそうになる涙を堪える。思い通りにならないことが悲しくて、自分の力の無さが悔しくて、やり切れない思いだった。

 親友からもらう手紙に書かれていた自国の城下町の様子。その町を自分の足で歩ける楽しさ。大好きなお菓子を自分で買って食べる喜び。紙面から伝わってくる感情の一つ一つが励ましになり、そして羨ましかった。
 意を決して動いてみても、想像以上に多くの壁が立ちはだかっていた。しかし諦めず計画を練り、少しずつではあるが障害を乗り越え、こうして決行を迎えた今日――その計画は失敗しようとしている。

(私はただ、普通の女の子みたいに……!)

 口に手を当てて漏れそうになる嗚咽を無理やり押さえる。思い通りにならずむせび泣くなど子供ではないか。いずれ兵たちが気付いてここに来る。いくら逃げていた身でも無様な姿を晒してはいけない。

(だって私は、この国の――)

 その時、背後から聞こえたスタッという音に驚き、勢いよく振り返る。

「よう、助けがいるかい?」

 ――見慣れない少年がそこにいた。
 短髪で、自分が調べた町民の男性のような質素な服を着ている。
 若々しい顔にニヤリと聞こえてきそうな笑みを浮かべ、こちらを見ていた。

「え……」
「ふーむ、状況を察するに、ここから逃げ出したいんだな? よっしゃ」
「ちょ、きゃあ!?」

 自分の言葉を押し付けるように話す少年はこちらに近づくと、いきなり体を抱え上げた。俗に言う、お姫さま抱っこの状態である。
 そこまではいい。驚いてしまったが、それだけで済む。
 問題は自分を抱えた少年がバルコニーの手摺りにひょいと飛び乗ったことだ。

「お、降りなさい! あなた、一体何をしようというのですか!?」
「あんまり騒いだらまずいんじゃないの? まあいいや、行くぜ」
「行くって、どこに――」
「あーらよっと」

 なんと少年は本当にそこから降りたのだ――虚空へ。

「ひぃっ……!」

 かつてない死の恐怖を感じ、思わず少年の首にしがみ付いて強く目を閉じる。

「おお、言われるでもなく捕まってくれるとは安心だ。そのまま大人しくしててくれよ」
「な、何を暢気なことを言っているのですか! このままでは地面に激突して――」
「しまわないよ」

 当たり前のように放たれた少年の言葉に唖然としてしまう。遅れて気付いた。
 少年も自分も、落ちていない。むしろ――上昇している?
 ありえないと周りを見渡すが、見える景色も、肌を撫でる緩やかな風の動きも変わらない。
 空を飛んでいる! 現実とは思えない事態に、恐怖も忘れて見入ってしまった。

「わあ……」

 眼下に見下ろす城下町。右手は山脈。左手は平原。そして見上げれば晴れ渡る空と雲。
 広い――世界とは、なんと大きく広いのだろう。
 バルコニーで見た景色とさして変わらないはずなのに、何故こうも心奪われてしまうのか。
 まるで風と一体化しているような心地に陶然としてしまう。

 そこへ現実に引き戻す少年の声が届いた。

「おい、十分昇ったしここから下りるぞ」
「あ、はい」

 そこで少年の表情が、先ほどまでの頼もしそうな笑みではなく、とても意地悪そうな笑い方だと気付き、嫌な予感を覚える。

「町の端っこに下りるからな。しーっかり捕まってろよ」
「え、あの、すみません、できればさっきまでのようにゆっくr」

 願いは聞き届けられなかった。
 これまでの姿勢から急に体を傾けたかと思うと、少年はとてつもない勢いで一気に滑空し始めたのだ。当然、抱えられた自分もいっしょに。

「きゃああああああ!!!」

 頬を叩く強風に再び恐怖を煽られ、絶叫を上げる。
 地上まではかなりの距離がある。城下町の端となればもっと距離がある。
 その間、彼女は望まぬ恐怖の飛翔を存分に味わうことになった。





 城下町の端、正確には町を取り囲む城壁と古びた倉庫の間に向かってひたすら加速していた二人だったが、地上の石畳に激突する寸前に逆巻く風が二人を優しく包み、少年は軽やかな着地を決めてみせた。打ち捨てられた雰囲気のある場所で、周囲に人影はない。

「ほい到着っと」
「は、はひ……」

 少年の腕から下ろされて立とうとするも、力が入らずしゃがみ込んでしまう。

「おいおい、しっかりしなよ。手ぇ貸そうか?」
「い、いえ、大丈夫です。立てます」

 恐怖のあまり腰が抜けてしまったのだ。ガクガクと笑う膝を叱咤して何とか立ち上がる。
 どうにか気合で踏ん張り、改めて少年を見た。

 先ほどの印象の通り、若い。しかし幼さを窺わせる雰囲気はない。
 恐らく二十台半ば、振る舞いによっては三十台で通じるかもしれない。短めの黒髪に漆黒の瞳。身長は自分よりやや高く、町民が着るような簡素な服装で全体的にこざっぱりとした出で立ちだ。
 得体の知れない怪しい存在なのに――何故だろう、怖くない。
 不審極まりない相手なのだが、人類には体験不可能なはずの飛行経験のショックで疑心がどこかへ吹っ飛んでしまったのだろうか。

「大丈夫だって言えるなら平気か。じゃあ自己紹介といこう」
「あの、すみません」
「ん?」
「聞かないのですか?」
「何を?」
「……いえ、聞かないならそれでいいんです」

 何故城内で逃げていたのか。行動だけを見れば罪人のように動いていた自分のことが気にならないのだろうか。そう思って尋ねてみたのだが、返ってきたのはあっけらかんとした疑問。怪しんでいた自分の方が逆におかしく思えてきた。
 こちらから聞こうとしていたあの前人未到の空中遊泳(?)についても、口にするのがなんだか躊躇われてしまう。あんなことができるのは、知る限りだと永遠神剣を持つスピリットくらいなのだが……彼が気にしないのなら、こちらも気にしないようにしよう。

「まあいいや。俺の名前はタクミ。お前は?」
「私は、アズマリアと言います」
「アズマリア、か」
「はい」

 会話が止まる……そして気付く。

(しまったああああああああああああああああああああ!!!)

 少年が名乗った流れに乗って自分も名乗ってしまった――知られてはいけない本名を。
 普通の女の子らしい振る舞いはばっちり練習したくせに、普通の女の子らしい名前をちっとも考えていなかったのである。

(バカ、私のバカ、バカバカバカ……)

 よりにもよって自分から正体を明かしてしまった。どうやっても言い逃れはできない。
 そう思っていたから、耳に入った言葉にまともな反応ができなかった。

「なあ、リアって呼んでいいか?」
「……へ?」
「俺としては、アズマリア、だと呼ぶ時にちょっと仰々しく感じるんだ。リアってあだ名なら通じる部分もあるし、だめかな?」
「え、や、す、り、と」

 意味のない声を出しつつ、自棄になりかけた思考を引き戻す。
 まさか……気付いていない?
 慌てて少年――タクミが何かする前に口を動かす。

「ええいいですよはい私はリアということでそれでお願いします!」
「? ああ」

 畳み掛けるように続けたアズマリア、もといリアの言葉に、彼は首を傾げながらも頷いた。
 どうやら、何とか誤魔化せたようである。

 危なかった――背筋を流れる大量の冷や汗を感じながら、リアは心の中で安堵の溜め息を漏らす。どういうわけか、タクミは『アズマリア』のことを知らないらしい。普段なら怪しさ全開の視線でも向けるところだが、ここは彼の流れに乗ってうやむやにさせてもらおう。

「では私も、あなたをタクと呼んでもいいですか?」
「なんだ、対抗して俺の名前を削るってか? 名乗ったばかりの人の名前をわざわざ削るとは横着なやつだな」
「会ったばかりの女の子にあだ名を付ける人に言われたくありません」
「女の『子』?」
「……なんですかその目は」
「いーえー、べっつにー?」

 今年で二十七歳になったリアがジロリと睨むが、タクミはどこ吹く風といった調子でとぼけてみせる。

「とにかく――はじめまして、リアと呼んでください」
「ん。俺はタクミ、タクって呼んでくれ」

 笑顔で差し出した手を、同じく笑顔のタクミが握ってくる。普通の女の子として初めて交わした握手は、リアの胸に大きな達成感を生んだ。
 側近の侍女とも、初めて顔を合わせた時に同じことをした。お互いが名乗り合って、笑顔で握手を交わせばそれでいい。
 目標その一、外で友達を作る――達成!





   ***





「なあなあ、あの鍋がたくさんある屋台って何だ?」
「あれはスープ売りです。いい匂いがするでしょう?」
「全部スープか。色々あるんだな」
「国土の半分以上が湿地帯のこの国は北方五国の中でも、夜間の冷え込み対策が進んでいるんです。水源も豊富で、汁物は美味しいものがたくさんありますよ」
「ふーん。あ、蓋が開いた……うは、すげえ緑色」
「あれはモーナムです。野菜がふんだんに使われていて栄養がいっぱいなんですよ。作る人によって材料に差が出るんですけど、あれはきっとリクェムを多く使っていますね」
「りくぇむねえ」
「苦手ですか?」
「っていうか野菜全般が嫌い」
「お子様ですね」
「心はいつだって少年なのさ」
「いえそんな胸を張って堂々と未熟者を宣言されましても」
「いいんだよ、どーせこれ以上成長しないし」
「ダメですよ。大きくなるだけじゃなく、野菜には体調を整える効果も――」
「お、なあ、あそこ見ろよ。何か見世物やってるみたいだぜ」
「もう……って、引っ張らないでください!」

 城下町を歩きながら様々なものに興味を示すタクミに、リアは一つ一つ丁寧に説明する。

 なんでも、彼はイースペリアを訪れるのは初めてらしい。よかったら説明がてら案内してくれないかと頼まれ、町に行こうとだけ考えて特に方針を決めていなかったリアは二つ返事で了承した。
 と言っても、自分も城下町を散策するのは初めてなので上手く案内できるか不安だったのだが、本人曰く田舎者であり、そのタクミが予想以上に幼い反応をするので今の所は問題なく案内できている。

 それに楽しんでいるのはタクミだけではない。案内をしながら、リア自身も今まで感じたことのない新鮮な気持ちでいた。
 毎日のように城から見下ろしていた町を歩くとは、こうも驚きの連続なのだろうか。
 特に人込みがすごい。スープの屋台があった市場など、正面や横から来る通行人とぶつかりそうになるのは当たり前で、ぶつかっても軽く会釈するか、一言「失礼」と言うだけで誰もが忙しなく動き回っていた。これまでの人生でそんな軽い対応をされたことがなかったリアは、これが市井の感覚なのかと少々唖然としてしまったものだ。

 その最中、リアが突き飛ばされるようにぶつかり、倒れそうになったところをタクミが支えたことがあった。
 異性と密着するなどほとんど経験のないリアは顔を赤らめながらも感謝の言葉を口にして離れたが、自分の足で立ってからもタクミはリアの手を握ったまま。
 どういうことかと目でタクミに問うと、彼は笑ってこう言ったのだ。

『この方が安心だろ? 案内させてる俺のせいで怪我でもされちゃ悪いからな』

 さらりと放たれた台詞を聞き、しっかりと握られた手の暖かさも相まって、リアは恥ずかしさのあまり何も言えなかった。それまで感じていた、まるで歳の離れた弟を導く姉のような気分をあっさり打ち消され、あたかも想いを寄せる男性に優しく守られているような安堵に満たされたのだ。真っ赤になった顔を見られまいと俯くばかりである。
 城で催される社交界などで握手したり他人に手を触れられることはあっても、このような形で異性としっかり手を繋いだことはなかった。言わばリアにとって、これが生まれて初めて感じた男の温もりなのだ。
 なお、先の飛行の際、お姫さま抱っこされていたことは考えないでほしい。あの時はショックが大きすぎて異性の温もり云々を意識する余裕など欠片もなかったのだから。

 そんなこともあって、今は二人で手を繋いで歩いている。最初は恥ずかしさもあったが次第にリアも慣れてきて、町を回り始めた時のように丁寧な解説ができるようになった。
 横を歩くタクミが全く気にしていない――少なくともリアにはそう見えた――こともあり、自分だけが気にしてなるものかという悔しさから来る反発心もあったのだが。

 そうやってタクミに手を引かれてやって来た広場では、見世物をする一団が芸を披露していた。
 一人が簡素な笛で演奏して、他の者が曲に合わせて演舞しているようだ。リアが人垣の隙間から覗いてみると、一人が細い棒の上で御手玉をして、他は地面で踊っている。

(すごい……!)

 リアは棒の上にいる者に見入った。細い足場の上で危な気なく動き、御手玉を続ける本人も楽しそうに笑っている。釣られて観客であるリアも笑顔になった。
 こういったパフォーマンスは城には無く、見たのはこれが初めてである。

 ふと、周囲の反応が気になった。
 リアにとっては珍しくても、普通の女の子にとってはどうなのだろうか。大したものではないはずの芸に目を奪われている姿はおかしく見えるだろう。
 横目でそっとタクミの様子を盗み見る。

「おー、やるもんだな」

 彼も感心するように笑顔で頷いていた。同じような周囲の人間の反応を見ている限り、あの一団が披露している芸はすごいものらしい。
 ならば自分も感心した顔をしていてもおかしくない。そう判断したリアは安心して驚きと興奮を露わにすることにした。

 と、その時。
 芸を披露している一団を挟んで反対側に兵士が見えた。

(いけない!)

 一瞬にして芸への関心が失せ、焦燥が心に生まれる。
 町を巡回中の警邏なのだろう。二人のスピリットを伴って歩いている姿を見てリアは焦る。
 まだ見つかっていないが、顔を見られたらばれてしまうかもしれない。急いでこの場を離れなくては。

「あの、タク、移動しませんか?」
「どしたよ?」
「いえ、その、えっと」

 咄嗟に出せる上手い言い訳が見つからない。どうしたものかと慌てて考え、

 ――くきゅ~

 鳴り響いた音に、周囲の人も見世物を忘れて何なのかと振り返る。街中だというのに耳に届いたその音はかなり大きかった。
 最初に気付いたのは本人。慌ててお腹を押さえるが、それでなかったことにできるわけではない。
 次に気付いたのはタクミ。微笑ましいような、おかしいような、おもちゃを見つけたような、微妙な笑い方でリアを見やる。

「そーかそーか。思ったより自己主張の激しいやつだな」
「ち、ちがっ! 私は、その、ただ」
「はいはい、俺も小腹が空いたよ。何か食べようか」
「だ、だから違うんです! そんな目で見ないでください!」

 結局、タクミが主導する形でこの場を離れることができたが、どうも釈然としないリアであった。
 何より、周囲の人間が大なり小なりタクミと似たような表情でこちらを見るので居たたまれなくて仕方なかった。





 結局、リアはお腹が空いたと思い込んでいるタクミを説得できず、道すがら彼が買ったコチの実を受け取って、二人は高台にある公園に訪れた。

 備え付けのベンチに座る際に、自然に二人分のスペースを軽くはたいて汚れを取るタクミに好感を覚えて、リアは小さく笑う。
 よっこいしょー、と口にしながら座る彼の横に、自分も静かに腰掛けた。

「いやー、楽しいね」
「はい……ですが、少し疲れました」
「もう疲れたのか? まだ歩き出して一時間かそこらだろ」
「あなたが引っ張り回したせいで気疲れしたんですっ」

 なんとかあの兵士を撒くことはできたが、またもタクミから質問攻めにされながら市場散策をする羽目になったのだ。
 広場に行く前とは違い、兵士の目から逃げられたか緊張し通しだったので、リアは酷く気疲れしてしまった。

 自分の手にある握り拳大の果実に視線を落とす。
 このコチの実、果物の中ではリアが最も好むものであり、やや硬めの食感と瑞々しい甘さが気に入っている。城でもよく食後のデザートに食べる。
 そんなコチの実を狙ったように――決してねだったりはしていない――買ってくれたタクミに感謝しつつも、リアはそこで動きを止めた。
 当たり前のことだが、買ったばかりのコチの実は皮が剥かれていない。しかし手元にはナイフなどない。タクミはどうするつもりなのだろう。

「ところでタク、コチの実を買ったのはいいのですが……」
「ん?」
「どうやって食べるのですか?」
「こうやって」

 するとタクミは、手に持ったコチの実を服で軽く擦ると、そのまま噛り付いた。

「こ、このまま食べるのですか?」
「なんだ、皮は嫌いか? 別に毒ってわけじゃないだろ。これくらい普通だ」

 普通――その言葉が、リアの耳に強く響く。
 そうだ。リアは普通の女の子。ならば普通の食べ方でコチの実を食べるべきだ。

(よ、よし)

 実を服でよく擦る。次いでじっと実を見つめ、勢いよく噛り付いた。
 が、勢いがよすぎて口を大きく開けすぎてしまい、歯がコチの実に食い込んだ状態で口を閉じられなくなってしまった。

「あ、あぅ! うあううぅ!」
「慌てるな。噛み切れない時は実の方を動かすんだ。これはけっこう硬いからパキって割れるだろ」

 横からタクミが手を伸ばして、リアがくわえるコチの実を動かすと、小気味よい音と共に実が割れた。急いで口の中に残った方を咀嚼していくが、彼女の口にはかなり大きいようでしばらくの間ひたすら口を動かすことになった。
 そうやって少し噛り付いては再び咀嚼を繰り返し、二人で黙々とコチの実を食べた。

 先に食べ終わったタクミに倣って、リアも種やへたを飲み込んでしまったので二人の手元には何も残っていない。
 その後もこれまたタクミに倣い、果汁でべたつく指を舐めて服の端で手を拭き、リアはようやく人心地ついた。
 それにしても、普通の人の食べ方は行儀こそ悪いが、食べた後に何も残らないのは綺麗なものだ。普段の自分がいかに贅沢な食事を口にしているかが分かる。

「うまかったな。今まで食べた果物の中で上位三つに入るぞ」
「本当ですか? 私、このコチの実が大好きでよく食べるんです。気に入ってもらえて嬉しいです」
「コチの実っていうのか。今まで住んでたところになかったな」
「タクはどこからやって来たのですか? イースペリアは初めてだと言っていましたが」
「俺? あっちの方」

 そう言って、彼は山の方を指差す。
 イースペリアの西にそびえ立つエトスム山脈。その向こうにはソーン・リーム中立自治区がある。雪に包まれた寒冷地であると同時に、肥大した四種のマナが入り乱れた、人にもスピリットにも住みにくい土地だ。
 タクはそこから来たと言うのか。

「ひょっとして山越えしてきたのですか?」
「まあね」
「……その格好で?」
「まさか。持ってきた荷物のほとんどはこの町で売ったんだよ。これからの資金源にしようって思ってたからさ」

 どうりで軽装なわけだ。

「そうだったんですか……では、タクは出稼ぎのためにソーン・リームを出たのですか?」
「いや、違う。俺には稼ぎを待ってる人なんていないんだ」
「っ! すみません、嫌なことを……」
「いーよいーよ。要するに自由ってことだからね。で、ここは一つ旅でもしてみようかと思ったんだ」
「旅、ですか」
「ああ、俺はこの世界のことを知りたいんだ」

 世界を知る。それはリアにとって、決して叶わない夢のようなものだ。
 それでいて彼女が常に向き合っていなければならないのも、他ならぬこの世界である。

 離れた場所から山を見ても、その山に何があるのか、何が起こっているのか知ることはできないように。
 たった一つの立場からしか見ることができない世界は、どんなに色鮮やかに見えても触れることのできない幻のようなものだ。
 そしてリアには、今の立場を離れられる自由はない。背負った責務を放棄する意志も。

「世界……」
「そ。俺はまだ何も知らないようなものだからさ。この世界での自分のやるべきこととか。とりあえず、やりたいことの一つとして旅をしようって思ったわけ」
「私も――」

 それが不満なわけではない。
 歴代の儀式により、最もマナに祝福された者として選ばれてから勤めを果たしてきたと自負しているし、これからも変わらず続けていく。
 既にリアにとって『選ばれたから』というだけでなく、彼女自身が己に誇りを抱いているのだから。

 それでも、夢を見る思いを捨てたことはない。

「私も知りたいです。世界の広さ、自分がいることの意味、色んなことを」
「そっか……じゃあ、俺はリアより一足先に色々見てくるよ」
「ふふ、ちょっと羨ましいです」
「そんで、次に会った時に、俺が見てきたものをリアに教えてやるよ」
「え?」

 耳に入った言葉が一瞬信じられなくて、思わずタクミの方を見てしまった。

「なんだよー、リアはこれっきりの付き合いだと思ってたのか?」
「あ、ですが、私たちは……」
「ふっふっふ、逃がしはせぬぞ~、おぬしは既に運命に囚われておるのじゃ~」
「ちょ、やめてください、手の動きが怪しいですよ」

 両手をこちらに向けて指をワキワキと動かしながら笑うタクミがやたらと不気味に見えて、リアは思わず座ったまま身を引く。
 だからだろうか。また会えるのか、という問題も彼ならあっさり笑い飛ばしてしまいそうで、口に出す気にならなかった。

「何にしても、世の中が平和な内にささっと回っちまおうと思うんだ。そんなに長くはかからないよ」
「分かりました。タクの漫遊譚を楽しみにしていますね」

 楽しそうにしゃべる彼を見ているとこちらまで楽しい気分になってくる。
 野暮な質問はするべきではない。そう判断したリアは素直な気持ちを告げた。

 しかしリアは知っている。今の平和は、束の間の平穏に過ぎないということを。

 先日、諜報部から入った情報によると、ラキオスとサルドバルドの国境で戦闘があったようだ。ラキオスのエーテル技術を盗もうとした手の者が、追撃をかけたラキオスのスピリット隊に倒されたのだ。
 事後承諾の形となったが、サルドバルド国内にラキオスのスピリット隊が攻め入るほどの戦闘が行われた。イースペリアも含む三国は龍の魂同盟という友好条約を交わしており、協力関係にあるので問題にはならなかったが、戦闘があったという事実は確実に国内を緊張させる。
 ましてやそれほどの『嫌がらせ』となると、ラキオスと隣り合う敵国のバーンライトの仕業とは思えない。ほぼ間違いなくサーギオス帝国が動いたのだろう。
 遠くない内に戦争が始まる。それも、かつてないほど大規模の。

(平和はいつまでも続かない……それでもイースペリアは、私が必ず守って――)

 と、そこで思考を止める。普通の女の子は戦争や政治のことを深く考えたりはしない。今タクミの横にいるのはただのリアなのだ。
 念願の町に来たというのに、これでは城にいる時と変わらないではないか。今くらいはそういうことは横に置いて楽しまなければ損というもの。決して普段の仕事が嫌なわけではないが、せっかくタクミといっしょにいるのだから今は彼のことだけを――

(――って、私ったら何てことを!)

 自分で自分の思考に照れてしまい、勢いよく俯く。きっと顔は赤くなっているだろう。
 そんな時である。

「すまない、少しよろしいか?」
「!?」

 俯いたリアの耳に、タクミのものではない低い男の声が響いた。
 視界に映るのは具足を付けた足。

(兵士だ!)

 接近に全く気付けなかった。
 先ほどの広場から逃げたのを気付かれていたのか。

「何かご用?」
「うむ。実は人を探しているのだ。高貴な姿をした女性を見かけなかっただろうか? 美しい黒髪を伸ばしたお方なのだが」
「兵士ってそういうこともすんの? 知らなかったな」
「はは、実質的な防衛はスピリットの仕事だからな。我々が他の仕事をするのは当然だろう」

 俯いたままのリアをよそに、タクミが兵士と応じる。

 使い走りのような仕事であっても、きちんとした意識を持って仕事に当たる兵士の姿は誇らしいものだ。スピリットを特に蔑視するわけでもない発言も、自分の主義が国に通っている証拠に思えて嬉しくなる。
 が、今この場でそれが確認できても焦りがいや増すばかりだった。

「それで、どうだろう。見なかっただろうか? 君とそう変わらないはずの年齢……うん?」

 そこまで言って、兵士はようやく俯きっぱなしのリアに意識を向けた。
 視線が自分の黒髪に突き刺さるのを感じながら、リアは激しく焦る。

 まずい。こうして目の前に立たれてしまっては逃げようがない。
 町では誰にも気付かれなかったが、これほどの間近でまじまじと見られてはさすがに分かるだろう。

(ここまで、かな……)

 城のバルコニーで感じたあの諦めが再び沸いた――その時である。

「なあなあ、兵士さん」
「ん?」

 二人の間に割り込むように顔を出したタクミが兵士に話しかけた。
 顔の前で手をひらひらと振りながら軽い調子で言う。

「別に、俺たちのことなんて気にしないでいいだろう?」
「……そうだな。気にしないでいい」

(え?)

 思わず俯けていた顔を上げてしまう。
 今までの会話は何だったのか。

「ここら辺を探さなくてもいいんじゃないか?」
「……そうだな。ここら辺を探さなくてもいい」

 呆けているかのようにタクミの言葉を繰り返す兵士。
 かと言って正気を失っているわけでもなさそうだ。彼はちゃんとタクミの目を見て話している。

「もう行っていいか? 俺たちデートの最中なんだ」
「……ああ。行っていい」

 会話はそこで止まり、タクミはおもむろに腰を上げた。リアに目を向けて「行こうぜ」と促してくる。
 よく分からないが、このまま離れられるらしい。慌てて立ち上がり、タクミについて公園を出た。

「仕事熱心な兵士だったな」
「え、ええ」

 それにしても……一体何が起こったというのか。
 あの兵士は間違いなく自分を探していたはずだ。
 振り返って見ると、さっきは気付けなかったが連れて来ていたスピリットを伴って、別の方向に歩いていく兵士の姿が見えた。
 タクミの言葉通り、自分たちのことを気にせず別のところへ行くようだ。
 わけが分からなかった。

「でも空気は読めてなかったな」
「え?」
「デート中の男女二人組に声をかけるなんて無粋もいいとこじゃないか」
「で、デートってそんな……!」

 タクミの言葉に顔が赤くなるのが分かる。
 たしかに自分たちは男と女が一人ずつ。町を歩いている時は手を繋いでいて、公園には二人きりだ。ああそういえばコチの実の代金はタクミが出したのだった。彼が当たり前のように動いたので自分の分の代金を払うのをすっかり忘れていた。これは俗に言う『奢り』というものではないか。奢ってもらえて運がいい? 違う本質はそこではない。デートにて男が甲斐性を見せるために代金を受け持つ様式だと聞いたことがある。いやいやだからと言って自分たちはそういう関係ではなく、けどやっていることはそれらしいもので――
 頭の中は千々に乱れ、リアは軽いパニック状態だった。

 そんな様子を見て、それはそれは面白そうにニヤニヤとした笑みを浮かべながらタクミが口を開く。

「それじゃ、デート、の続きと行きましょうか、お嬢さん?」

 こちらに手を差し出しながら、彼はわざと一部を強調して言った。

「え、ええ、そうですね、よろしくお願いします!」

 頬の熱さを自覚しながら、恥ずかしさを振り切るようにリアは大きな声で返した。

 この際、違和感は気にせず楽しもう。
 結果だけを見れば、まだ二人で町を歩けるということなのだ。
 そう思い、リアはタクミの手を握り返した。





   ***





 あれからリアはタクミといっしょに町のあちこちを回った。
 もう一度市場を訪れ、先ほどは見過ごしていた屋台を発見して覗いたり。
 今度こそはと自分の財布を握り締め、二人分のネネの実のジュースを買ったり。
 装飾品の店に入って、棚に並ぶ商品を眺めて長々と居座ったり。
 普通の女の子として、思う存分楽しんだ。

 そして――

「とーちゃくー」

 日が陰る頃合になり、再びタクミに抱えられて空を飛び、リアは城に戻ってきた。
 出た時のバルコニーではなく、あそこから離れた位置にある幅の狭いベランダだ。

「ここでよかったんだよな」
「ええ、ありがとうございます」

 ふわりと降り立ったタクミの腕から下ろされる。

 二回目とあって今度は心構えができていたので、風が勢いよく頬を叩いてもみっともなく悲鳴を上げたりはしなかった。
 沈み始めた夕陽に照らされた町や城を眺める余裕もあったくらいで、飛ぶことを楽しめたと言ってもいい。もう一度飛んでみたいと考えてしまったくらいだ。
 しかし直後に、それは同時にタクミにお姫さま抱っこされることだと気付き、さらに何故自分がお姫さま抱っこされることだと当たり前のように考えるのかと羞恥の念に駆られた。

 とりあえず、とかく暴走しがちなこの思考を一度止めよう。どうもタクミが絡むと考え方がおかしくなる。このことは時間に余裕がある時にじっくり考えるとしよう。

(あ、あくまで私自身の考え方について見直すのであって、決してタクのことをじっくり考えるわけではなくて――)

「どうかしたか?」
「ひゃい!? な、何でもありませんよ!?」

 顔を覗き込んでくるタクミに慌てて返事をする。
 誰に対して言い訳をしていたのだ、自分は。

「そうそう、今さらだけど一つお願いがあるんだ」
「何ですか?」
「俺のことは誰にも言わないでくれよ。バレたら面倒なことになるし」

 両手を拝むように合わせながら言った彼の言葉に、リアは特に疑問を覚えなかった。
 空を飛ぶ。字にすればたったそれだけのことでも、それを行ったのがタクミだというだけで大問題だ。人間がスピリットの真似事をするなど考えもしないだろう。そんな考えもしないことが現実に起きたとしたら大騒ぎになる。

 つまり、今日一日の出来事はリアとタクミだけの秘密ということだ。
 どことなくくすぐったいものを感じて小さく笑う。このことは側近の侍女にさえ話せない。近しい者に隠し事をするのも気が引けるが、その隠し事をしているという事実さえも背徳感を高めるスパイスになる。
 何より、タクミと秘密を共有できることが嬉しかった。

「分かりました。今日のことは私の胸にしまっておきます」
「ありがとう、助かるよ」

 約束を胸に納め、二人で笑顔を交わす。

 そうしている間にも日の入りは止まらない。既に太陽は半ばまで沈み、空は黄昏時の色に染まり始めている。じきに星も姿を現すはずだ。
 それはつまり、いつまでもこうして話しているわけにはいかないということ。
 夢はいつか覚めるもの。楽しい時間には必ず終わりが来るのだ。

「じゃあ俺はもう行くぜ。今日は楽しかったよ、ありがとな」

 そう言ってタクミは離れる。僅かな幅しかないベランダなのに、離れた彼が酷く遠くに感じて、リアは咄嗟に声を出した。

「あの、タク!」
「ん?」
「私も、とても楽しかったです。ありがとうございました……さようなら」

 少しだけ手を上げて小さく振る。
 大丈夫、まだ笑顔でいられる。最後の瞬間まで、ちゃんと笑って――

「違うだろ」
「え?」
「こんな時はこう言うんだよ――またな」
「……っ! はい、またいつか!」
「ああ、またデートしよう」
「でっ……!」
「なっはっは、それじゃ」

 赤面するリアをよそに、タクミはベランダの手摺りにひょいと腰掛けて――体を仰向けに倒してそのまま落ちた。

「タクっ!?」

 慌てて駆け寄り、手摺りから身を乗り出して下を見るが、タクミの姿はどこにも見えなかった。まるで風に溶けてしまったかのように。

 タクミ……不思議な少年だ。
 思えば出会った時から主導権を握られっぱなしだった。普段は場の中心となり、周囲を引っ張っていく立場のリアにとっては彼の行動は何もかもが新鮮で、目を白黒させてしまうことも少なくなかった。
 やや強引な節もあったが、そうやって引っ張られることを楽しんでいた自分に驚く。

 不意に強く風が吹き付けてきてリアは我に返った。いつまでもこうしているわけにはいかない。
 名残惜しさを堪えて踵を返す。ベランダにある大窓に近付き、手をかけた。
 この大窓にはちょっとした癖があり、やり方次第では外からでも鍵を開けることができる。そのやり方を最初に発見したのはリア自身だ。
 知っていて当然である。何しろ大窓の向こう、この部屋はリアの部屋なのだから。

 大窓を少しだけ持ち上げて、なるべく静かにカタカタと揺らして元の位置に戻す。それを何度か繰り返すと、カチンと音がして鍵が外れるのを感じた。これで中に入れる。
 大窓を開いてカーテンの隙間からそっと中を窺う。見える範囲では出た時と何も変わっておらず、誰かが来た様子はなさそうだ。大丈夫だと判断したリアは、物音を立てないように中に入り大窓を閉めた。

 すぐ着替える気になれなかった。体の中は心地よい疲れと消えない高揚で満たされている。この感覚が落ち着くまでじっとしていたい。
 フラフラとベッドに近付いて腰掛ける。そのままカーテンの隙間から外を見た。

 風と共に現れ、風と共に消えた少年を想う。
 たった半日をいっしょに過ごしただけなのに、脳裏に残る姿に不思議と胸が痛んだ。

(タク……また、会えますよね?)

 心の中で呟かれた問いに、答える声はない。





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外伝――壱

 目を開いて最初に見えたのは異様に高い天井だった。

(……ここは?)

 周囲は暗い。しかし所々に小さな光源があり、完全な闇に包まれているわけではなかった。
 横たわる身を起こそうとして、自分が拘束されていることに気付く。

「えっ、な、何、何これ」

 見回しても周囲をはっきりと窺うこともできず、首や腕などに食い込むひんやりした金属の感触の方がよく分かった。

 それでも狭い視界で捉えたところ、ここは研究室のような印象を受ける場所だった。
 近くの机で二人の白衣姿の男が神妙な顔で手を動かしている。

 目覚めたことに気付いたのか、その二人がこちらに目を向けた。

「amasabura、useduoyatemazemagurupnnas」
「andauoyonos。nnires、eruketikettomownneknnisatisuonnnah」
「atisamirakaw」

(誰? 何て言ってるの?)

 知らない場所で目覚め、見たこともない人が聞いたこともない言葉をしゃべっている。理解できる範疇などとっくに超えており、否応無しに混乱する。
 金髪の男の言葉を受けて、もう一人の茶髪の男は一礼すると壁にある棚の方へ向かった。
 残った方の男がこちらに近付いて見下ろしてくる。

「あ、あの、ここって何処ですか? あなたたちは誰?」
「etas、anakureruketesimowakkekannodahimik? enedetemijahahonatisuogiketodoherok、oyadonurietisiatikarakiisaruzem」

 全く分からない。英語ではないし、そもそも理解できる言葉が一つもない。聞いたことがない言語もそうだが、それ以前に彼はこちらの声が聞こえているのだろうか? こちらの声に対して反応しているように見えないのだ。
 そのくせこちらを覗き込みながら上機嫌で語っている。場所と彼の格好も相まって、まるで実験動物を観察しているようにさえ見える。

 目を白黒させていると、茶髪の男が戻ってきた。

「amasabura、atisamisitomoownneknnis」
「isoy、ozurakakirotinuoygasukossas。nnires、orisowibnnuj」
「utxah」

 持ってきた物を側に立っていた金髪の男に渡すと、恭しく一礼し、机の方に向かう。
 その男が手にしている物に、どうしようもなく目を奪われて、何を話しているのか気にならなくなっていた。

(あれは……槍?)

 一本の槍である。柄は闇の中でも分かる漆黒。その片端に付いた刃は矢印を思わせる形をしており、濡れたように煌く白銀色だ。刃の根元からは純白の細長い飾り布が伸びており、柄の色と相成って気品のある優美な雰囲気を醸し出している。

(きれい、だな……)

 武器という、明らかな殺傷を目的とした道具を持ち出されたというのに、少しも驚きの感情が沸いてこないことに気付かなかった。何故武器を持ち出してくるのか、不思議にさえ思わなかった。
 それだけその槍に見入ってしまい、他に何も考えられなかったのだ。それまでに感じていた混乱も、槍を目にした途端あっさり治まった。

 そうして槍に見惚れている間に男たちは準備を終えたらしい。
 我に返ると、二人が左右から挟むように立っていた。槍は男の手を離れて自分の上に浮いている。何の支えもなく宙に浮いていたのだ。

「adirubisasihomuoguuyonnneknnisotiatnnij。anagadoniiotukiukamu」
「usamietisemisowiesuogiketoneruzahatekahotnnekkijonokak。otusameriinoyruokowiagit、otakigakagotokuraedomodokirahay」
「umuh。oyesinaritod、akotokurakawaberimettay。ahed、ozuki」

 二人の会話が耳に届いても脳で認識しようともせず、むしろより近くで槍を見つめられることに興奮すらしていた。
 普段なら物が宙に浮いている状況に疑問を覚えただろうが、その美麗な姿に見入ってしまい、まともに思考が働かない。
 拘束された身でなければ今すぐにでも手を伸ばしてやりたいのに――

 その時、急に槍が光を放ったかと思うと、粉々に砕け散った。甲高い音を響かせてばらばらになった光の欠片たちは、溶けるように虚空へ消えていく。
 何ということ……あんな素晴らしい槍が、目の前で消えてしまった。この手に握り、振り回してみたかったのに。きっと手に馴染んだはずだ。武器なんて初めて見たし、触ったわけでもないけど、何となく分かる。あれは自分のためにこそあった槍だ。なのに消えてしまった。残念でならない。
 いや、全部が消えてしまったわけではない。槍があった位置に伸ばされた金髪の男の手に『何か』が集まっている――待て、『何か』とは何だ?

 男の手の中にある『何か』を認識した瞬間、それまでの陶酔が一気に冷める。
 無形で不可視の塊。しかし、確かにそこにある。分かる。分かってしまう。
 次いで頭の奥に生まれたのは、目覚めた時を上回る混乱と、明確な恐怖。

(何……あれ……!)

 その『何か』からものすごく嫌な感じがした。
 何がどう嫌なのか、具体的に説明することはできないが、とにかく嫌な感じなのだ。

「やだ……来ないで! それ、やだ!」

 男の手が、そこにある『何か』が近付いてくる。激しく暴れるが、拘束された身では逃げることは叶わない。
 目に見えないのに確かにそこにあると感じる。そうやって感じられる自分の感覚さえも不気味に思えて、どうしようもなくパニックに陥った。

 そして男の手が腹の辺りに向けられ、そのまま『何か』を押し込むように手に力が込められる。

「いやだ!! やめてよ!! いやだああああああああああぁぁぁ!!」

 自分の中に『何か』が潜り込む感触、心を犯されるおぞましさに絶叫する。
 肉体と精神を同時に侵食される恐怖と吐き気に耐えられず、再び意識は闇の底へと堕ちていった。





   ***





 榎本匠。当時、10歳。
 その幼い体に永遠神剣の思念が憑依させられる。
 祝福であれ呪縛であれ、彼の運命が狂った決定的瞬間だった。

果て無き物語 | コメント:3 | トラックバック:0 |

序章――伍

 風を切って空を駆けながら、シスカは不満を堪え切れず顔をしかめていた。
 眼下に広がる緑豊かな森林も、夜空に煌々と輝く満月や煌く星々も、普段なら彼女の目を楽しませただろうが今はそれらも目に入らずただ苛立ちが募る。

 本来、休暇中である彼女がこの世界に来たのは自分の意志ではない。思いがけず得た休息を悠々自適に過ごしていたところを、所属する組織――ロウ・エターナルの幹部、テムオリンに命じられて危急の任務を与えられたのだ。
 ただしシスカはあの法皇を気取るエターナルを敬う気持ちは欠片もない。その腹心であるタキオスは尊敬に値する武人だが、あの女の声が脳内で再生される度に胸糞が悪くなる。

『私の管轄の世界に異分子が侵入したことを確認しました。貴方が調査して来て下さいな』

 こちらの都合を一切無視した独断。相変わらずだ。まったく。

 そうだ。昔からあの女の独断専行には悩まされてきた。そのおかげで我々がどれだけ苦労してきたか。
 奴らが破壊するだけして回った後の周辺世界の微調整に骨を折らされた。当時、盟主はそういった事態も楽しんでおられたようだが……シスカはあの耳障りな笑い声に苛立つばかりだった。





   ***





 エターナルには大小問わず様々なグループがあるのだが、特に有名な所と言えば以下の二つが挙がる。

 ロウ・エターナル。
 神剣の本能である破壊衝動は全てを吸収して最終的には一本の剣になるためのものであり、それを遵守してやることこそが万物の存在理由だと考え、全てをマナに還すために活動している。
 『あるべき姿に戻るべし』のみが全世界で通じる唯一の法、という意味でLawロウと名乗っている。

 カオス・エターナル。
 こちらはまったく逆の思想を掲げており、一つになることをよしとせず、あくまで自分は自分であると主張する、ある意味わがままな神剣とその契約者たちの集団である。
 『あるがままであるべし』とロウの活動の邪魔をしている内に、法を乱す邪悪なる混沌という意味でChaosカオスと呼ばれるようになった。

 シスカは前者のロウに属している身だ。エターナル全体では最も大きな集団だが、彼女が今回の任務に不満を持つように、決してまとまりがいいというわけではない。

 ロウ・エターナルという組織も一枚岩ではないのだ。
 全ては第一位永遠神剣のためにと言っても、そこには一人一人違う様々な思想が入り混じってくる。
 そして最終的に、《宿命に全てを奪われた少女》ミューギィと《虚空の拡散》トークォを頂点として、残る者たちが二つの派閥に分かれたのだ。

 即ち、法皇派と皇帝派。

 法皇派のトップは、名が示している通り《法皇》テムオリンだ。エターナルの中でも上位の実力を持ち、腹心である《黒き刃》のタキオスを筆頭に数多くのエターナルを部下に抱えていた。
 そう。『いた』のだ。過去形である。
 とある事件により、テムオリンと他複数の幹部と部下を残して、それ以外の全てのエターナルがミューギィによって完全消滅させられてしまったのだ。
 この事件により、法皇派は勢力の大部分を縮小された。

 それを見逃す皇帝派ではない。この機に乗じてロウ内部の仕組みを一気に皇帝派に染めてしまおうという動きもあった。
 しかしそれは叶わない。やや遅れて皇帝派にもとんでもない事件が起こったのだ。
 盟主《皇帝》アルバの殺害。しかも多世界に分離させていた永遠神剣第二位【創世そうせい】の情報媒体さえも根こそぎ消滅させるというおまけつき。
 それと同時に、皇帝派に属するエターナルが5人も滅ぼされる。こちらも同じく神剣から分離させた情報媒体も消滅されてしまったので、媒体を元にして体を再構築することも叶わず、その他にも甚大な被害が出た皇帝派は勢力を大きく削られる羽目になったのである。

 こうなってしまえばもはや派閥だの勢力だの言っている場合ではない。残るエターナルたちを統合し、ロウ・エターナルを再編しなければ組織の活動にも支障が出る。そうなれば敵対しているカオス・エターナルともまともに渡り合えず、自然消滅しかねなかった。
 幸いと言うべきか、テムオリンを始め、組織をまとめる能力を持つ者がそれなりに残っていたこともあり、なんとか組織としての活動ができる程度に被害は治められた。

 問題はその先だ。
 何故かミューギィは一切の動きを止め、近付くことさえ叶わなくなった。
 唯一彼女に近づけるトークォはその側を片時も離れようとしない。
 実質的にトップである二人がいなくなったようなものであり、これ幸いとばかりにテムオリンがロウ・エターナルを自分の好きなように動かし出したのである。

 皇帝派の生き残りにとって、これは堪ったものではなかった。
 シスカはかつて第四位【謎掛なぞかけ】の主として、多次元世界の成り立ちと根源を探る旅を繰り返していた。その果てに第三位【超克ちょうこく】と契約してエターナルとなった彼女は、自らを《超越の使徒》と名乗り、ロウ・エターナルに加わった。
 そこで出会ったアルバの思想に心を打たれ、皇帝派に己の力を捧げると決意したのだ。決してテムオリンの思想に感じ入ったのではない彼女は、法皇派を毛嫌いしているのである。

 何が言いたいのかというと……シスカは今回の仕事にさっぱり気が乗らなかった。
 その心の持ちようが仇となり、この日が彼女の命日となる。





   ***





 それらしき気配のある場所に着き、シスカは地上に近づく。そこは山の中腹辺り、深い森の中で少しだけ開けた広場になっていた。
 そこにいたのは人間だった。
 男である。黒髪の下にある顔は若く、少年と青年のちょうど中間……どちらかと言うと少年寄りか。小奇麗な紺色の服からは清潔さが伺える。
 目を閉じたままやや顔を上向け、何をするでもなくただそこに立っているようだ。

(本当に?)

 否――見た目で受ける印象を、シスカは即座に否定する。
 何故なら感じるからだ。この者が纏う神剣の気配を。

 油断はしない。天敵である猫に噛み付く窮鼠もいるように、どれだけ矮小な存在であろうと上位の存在に牙を向くのが命あるものだとシスカは理解している。
 例え自分がエターナルであっても、それが絶対的な有利になる理由にはならない。現に神剣を持たない身でありながらエターナルと渡り合ったものさえ存在するのだ。
 慢心は身を滅ぼす毒である――【超克】と出会う前からある己の信条に従い、気持ちを引き締める。

 そんなことを考えながら広場に降り立ったシスカに気付いたのか、少年は目を開いてこちらに顔を向ける。

「もう来たのか。けっこう早かったな」

 驚いた様子はない。自分が来ることが分かっていたような物言い。

 シスカは警戒を強める。永遠神剣を持つのなら、自分がエターナルであること――少なくとも超常存在であることは感じていよう。なのに動揺が見えないとは。
 こういう状況に慣れている?
 もしくは恐れを隠している?
 疑問は尽きない。当初の予定通り、問い質すとしよう。

 腰に佩いた刀【超克】を抜き放ち、少年に向かって突きつける。

「答えてもらおう。お前は何故ここにいる?」
「誰が言うかバーカ」

 ご丁寧にもアッカンベーまでする少年に、些か毒気を抜かれたような気分になる。いくらなんでも、ここまで幼稚な返され方をされるとは思わなかった。
 しかしその気分も、続けて出た少年の言葉を聞いて一瞬で反転する。

「けどこっちの質問には答えてもらう――お前、秩序側か?」
「っ!!」

 さらりと出た言葉は、その軽い調子とは裏腹に見逃せない重みを以ってシスカに圧し掛かった。僅かに目を見開くシスカを見て、少年は溜息と共に頭を振った。

「やーれやれ。さっそく面倒なやつが来やがった……ああもう、ほんっとめんどくさい」
「貴様、何者だ!?」
「だから言わねーっての。けど、そうだな……せっかくここまで来たんだ。何も無しで帰すのももったいないか」

(こいつは何を言っている!?)

 不可解を通り越し、不愉快さえ置き去りにして不気味に思うほど少年は平静だった。
 そうやって戸惑うシスカを放ったまま、少年が口を開く。

「無限の時が鼓動を止め、人は音もなく炎上する」

 緊張に身を固めるシスカの前で、少年は『それ』を素早く完成させた。

「誰一人気付く者もなく、世界は外れ、紅世の炎に包まれる――封絶ふうぜつ

 ――世界が、ずれた。
 一瞬だった。気が付いた時には、少年を中心として広がる魔方陣の帯が自分の横を走り、その力を発揮させていた。
 辺りの風景は鮮やかな色彩を失い、明滅する魔方陣の光がやけに際立って見える。

(これは結界? 閉じ込められた!?)

 シスカは自分の立つ場所――正確には座標が先ほどと極僅かにずれていることを察知した。本来立つ世界とほんの少しだけ座標を移した結界空間に取り込まれたのだ。

 恐るべき手腕だった。これほどの結界を張るための魔法、その術式構築やマナの収束は超一流と呼ぶにふさわしい技術である。
 しかし何よりシスカの心胆を寒からしめたのは、これほどの大魔法を発動前から目の前にいる自分にさえ隠し、いざ発動させてから刹那の間で完全に効果を発揮させたことだ。
 どんな動作にも必ず隙が伴う。効果の大きい魔法ほど比例してその前後には大きな隙が生まれるものだ。なのに目の前の少年は、魔法を発動するために高めたマナを気取られないように自分の内に完全に隠し通し、その状態のまま結界を展開させる魔法を僅か数秒で構築してみせたのだ。
 シスカは決して気を抜いていたわけではない。だと言うのに気が付けば魔法は発動され、結界に捕らわれてしまっている。

 これは、本気で当たらなければ――負ける?

「そう睨むなよ。ほら、遊ぼうぜ」

 眼差しに込められた敵意を笑って受け流し、少年は軽く跳躍する。膝も使わない少ない動きにも関わらずシスカよりも高く跳んだ。途端に渦巻いた風がその体を掬い上げ、空の高みへ連れて行く。

「逃がすか!」

 無論、シスカが黙って見送るはずもなく、自分も両足に力場を作って空中を駆け上がった。
 後を追いながら少年への対応を考える。

 とにかく不審の一言に尽きる。永遠神剣の契約者なのだろうが、それらしい得物は見えない。隙を突こうと体内に隠しているのか。少なくとも相当の実力者であることは確かだ。
 恐らくこちらの問いに真面目に答える気はないだろう。こちらの敵意を受け流したあの目つきには間違いなく嘲りの光があった。舐められていると思うと業腹だが、油断をしているとも取れるので先手は取りやすいかもしれない。
 取り押さえて尋問することは、難しいかもしれないが不可能ではないだろう。しかし果たしてそうするだけの価値を見出せる状況だろうか。手を抜いてあの少年に勝てるとは思っていない。戦いの最中に余計なことに気を囚われていると思わぬ隙が生まれかねないのだ。
 そうだ、元々ここはあの気に入らない法皇の管轄なのだ。何故自分が危険を犯して生け捕りにするなどとわざわざ骨を折らねばならない。あの少年が侵入した異分子なのだろうが、面倒はあの女に任せて自分はさっさと事を終わらせよう。
 結論――全力を以ってあの少年を葬る。

 定めた心の在り様に【超克】が歓喜の声を上げて力を送り込む。この神剣は立ち塞がる壁、疑念、試練を乗り越えんとする志の強さを力の糧とする。
 相棒から得た力でさらに速く高く舞い上がり、動きを止めた少年と対峙した。

「観念したか?」
「あーっとね、やる気満々になってるとこ悪いんだけど、俺は俺でちょっと確認したいことがあるんだよ」

 【超克】を握り締めるシスカの前で少年は飄々とした態度を崩さない。
 努めてそういう態度をして見せているようには見えなかった。この少年、自然体でありながらこうも他者を侮っているのか。

「ずっと長いブランクがあってさ。自分なりに鍛え直したつもりなんだけど、ちゃんと鍛えられているかいまいち自信が持てないんだ。俺ってば臆病者なんで」

 だからさ、と言って少年は人差し指を立てて――

「先手は譲るよ。一発攻撃を仕掛けてみてくれ。俺はそれを受けるから」

 ――とんでもない発言をした。
 唖然とするシスカを見て、少年はさらに続ける。

「別に遠慮することはないんだぞ。あんたの一番強い攻撃をしてくれていいし、力を溜める必要があるならそうしてくれ。何ならこの一撃で俺を殺したっていい」
「ふざけるな……!」

 意図は分かる。要するに彼は自分を実験台にしようとしているのだ。

 シスカは自分が最強であるなどと思い上がってはない。ロウ・エターナルの中だけで見ても自分より強い者は数多くいるように、上には上がいることをよく知っている。
 かといって自分を卑下しているわけでもない。【謎掛】や【超克】と共に今まで積み重ねてきた研鑽はそのまま自負になっているし、ロウの皇帝派に属しているこの身はそれ自体が彼女の誇りである。
 だからこそ、会ったばかりなのにも関わらずこちらを侮る少年の態度が許せなかった。

「いいだろう……そんなに死にたいのなら、我が最強の技で葬ってくれるわ!」

 侮っているならそのまま殺してやろう。
 罠に嵌めようとしているなら諸共打ち砕いてみせよう。
 舐めてかかる少年への怒りの意志に同調して爆発的に高まるマナがシスカの身を包んだ。

 自身の内と周囲のマナを制御下に置く。無差別に散らすのではなく、怒りの感情さえも力の糧として一つに束ねる。
 束ねた力をオーラフォトンへと変え【超克】に伝わせる。鋭利な刀身を包むマナが伸び、10mを超える長大な刃を形作った。この時点で竜種を一刀の下に両断できるほどの力が込められているが、シスカの本領はここで終わらない。
 彼女の意志に従い、刀身を包む巨大なマナが収束していく。そう、縮小ではなく収束だ。込められたマナ量を変えず体積だけを縮め、どこまでもその密度を高めていく。覆うマナが輝き、眩く彩られた光の剣が現れた。
 燦然と輝く【超克】を両手で握り締め、大上段に構える。宣言した通り、自身の最強の技で少年を一撃で葬るために。

 使徒剣アポステル・セイバーと名付けたこの技は、ただ大量のオーラフォトンを込めた斬撃ではない。刀を覆う光に隠れて目には見えないが、【超克】の表面に幾つもの小さな魔方陣が隙間無くびっしりと浮いている。
 この魔方陣は、浮かんだ対象の運動を加速させる効果を持つ。一つ一つは単純で性能も低いが、数多くの陣が作用し合うことで驚異的な加速性能を発揮するのだ。
 かつてタキオスと手合わせした時に繰り出したこの技の斬撃速度は通常の20倍。愚直なまでに強さと速さを突き詰めた刃は彼の強固な障壁を切り裂き、その体躯に傷を与えるに至った。
 あの時より、この斬撃はシスカの確かな自負になった。さらに研鑽を積んだ今、30倍に達しようかという加速性能を持つ。

 相変わらずヘラヘラ笑う少年に向かって、一度正眼に構える。そこからもう一度【超克】を上段に構えようとして、気付いた。
 こちらに向けられた少年の指から僅かな力を感じる。見ればその指先に小さな光の玉となったオーラフォトンがあった。
 だが、それがどうしたというのだ。
 あんなちっぽけな力でこの使徒剣に対抗すると言うのか。片腹痛い。どんな策があろうと、その策ごと真っ二つにしてくれる。

「消え果ろ少年、我が刃によってマナの塵となれ!」

 再び【超克】を上段に構え、シスカは少年に向かって突進した。
 【超克】のオーラフォトンに引きずられ、空間に漂うマナが変質して白く輝き、空を翔る一筋の流星を描く。
 繰り出されるのは絶対の剣閃。何人もこの刃を防ぐことはあたわざる――強き意志を以って振り下ろす!

 ――その剣閃に合わせるように、少年は指を動かした。

 白光が視界を満たし、耳障りな高音が響き渡った。
 ありえないはずの強い抵抗を感じてシスカは目を剥く。

 露になった光景に、シスカは目を疑った。
 振り下ろした【超克】。添えられるように接する少年の人差し指。
 油断も慢心もなかった。加減など考えず、間違いなく自分に出せる全力の一撃を放った。
 その攻撃が、指先一つで防がれたというのか!

「ふむ、なるほどね」

 ポツリと呟いた少年から一気に飛び退く。
 イテテ、と痛がって手を振る少年を見ながらシスカは驚愕の中にいた。

 触れていた【超克】を通じて、あの小さな光の玉に込められていた異常な量のオーラフォトンがはっきりと感じられたのだ。少なく見積もっても使徒剣の10倍近いマナを感じた。そんな途方もない量のマナを一点に凝縮するなど……いや、できるからこそこうして無事でいられるのか。
 たったあれだけで使徒剣を受け止めるなどありえない、という思考をあっさり覆して逆にシスカは納得してしまったのだ。
 考えてみればそうおかしなことでもない。この結界を展開させるためのマナを顕現もせず自身の内に完全に収束させていたのだ。指先への一点凝縮という難しいマナ操作も、この少年なら不可能では――

 そこまで考えてシスカは戦慄した。
 冗談ではない。自分の全力の攻撃を文字通り指一本で事も無げに防いだ。そんなことができる存在などそうそういるものではない。
 シスカの脳裏に浮かぶのはあるエターナルの名。尊敬するタキオスの剣を片手で受け止めたという少年。ロウにとって許すべからざる敵の象徴。

「貴様……ローガス、なのか?」

 意図せず、漏れる声に畏怖が滲む。
 《全ての運命を知る少年》という二つ名であらゆるエターナルに畏敬と畏怖を抱かせる規格外の存在。敵対するカオスのトップがこんなところに来ていたのか。

「はあ?」

 対する少年の反応は冷めたものだった。握り開きを繰り返していた手を下ろすとしかめ面でこちらを見やり、心外だと言わんばかりに吐き捨てる。

「俺をあんな笑ってばっかの得体の知れないアーパー馬鹿といっしょにすんな。こちとらちゃんと喜怒哀楽あるっての」

 失礼だぞ、と憤る少年の言葉を聞いてシスカは軽いパニックに陥っていた。
 確かに噂に聞き及ぶローガスは赤髪の少年。腰に一位神剣【運命うんめい】を携え、顔には常に笑顔が浮かんでいるという。目の前の黒髪の少年とは別人なのだろうが、それ以外に思い当たる存在がなかったのだ。
 躊躇いなくローガスを罵倒するこの少年は、恐らくカオス・エターナルとも繋がりがないのだろう。だからこそ、その正体の不明ぶりに拍車がかかる。
 ローガスではないというのなら、この少年はいったい何者なのだ。これほどの実力者が知られていないはずがないのに、シスカにはまったく見当が付かない。

「よーし、今度は俺の番ね。第八段階の解放を宣言する」

 混乱するシスカを放ったまま、無造作に右の腕を横に伸ばして少年は口を開いた。

「逢魔が時に秘められし汝を顕せ――【黄昏たそがれ】」

 その言葉に反応して凄まじい勢いでマナが渦巻き、その腕に収束していく様子がシスカには見て取れた。
 やがて収束したマナが手首の周りに凝り、輪の形になって――現れなかった。伸ばされた少年の右腕に姿を見せないのだ。
 だがシスカの目には、収束したマナが不可視の腕輪を形作る様子がはっきりと見えていた。

「それが貴様の永遠神剣か」
「ん、まあ、そんなところかな」

 不可視ではあるものの、それは単純に目だけで見た場合の話だ。シスカの感知力ではそこに存在することはありありと感じられる。
 【黄昏】と呼んでいたか。やけに大きく角ばった腕輪だ。あれでは腕を振る時に邪魔になりかねないし、腕輪を構成する部分同士に奇妙な隙間がある。まるで変形することが前提であるような形だ。

「そんじゃ俺のターンね。あ、別に無理して耐えなくていいぞ。どっちにしろ殺すから」

 さも当たり前であるように言い放ち、少年は腕輪に抱かれる右手を高々と掲げた。

「黄昏よりも暗きもの。血の流れよりも紅きもの。時の流れに埋もれし偉大なる汝の名に於て、我ここに闇に誓わん」

 少年の詠唱に同調して掲げた右手に桁外れのマナが収束していく。練り上げられたマナは黒のオーラへと姿を変え、恐怖の権化として顕現する。

「我等が前に立ち塞がりし全ての愚かなる者に、我と汝が力以て、等しく滅びを与えんことを」

 信じ難い密度で凝る力。
 闇よりも尚深い虚無を思わせる暗黒の塊。
 それを見て、今度こそシスカは理解した。

 間違っていた。舐めてかかっていたのは自分の方だったのだ。
 油断をしている? 違う。あれは余裕の表れだ。
 この少年は、本気を出さなければ勝てない、というレベルの相手ではない。
 形振り構わず全力で逃げ出したとしても生き延びれるか分からない、正真正銘の化け物だ!

「っく!」

 反転し、可能な限り足の力場にオーラを注いで全速で駆け出す。少年との間が一気に開き、その姿が小さな点になるまでそう時間はかからなかった。
 尤も、今のシスカには振り返って少年の姿を確認するほどの余裕はなかったので、その小さな点となった少年の姿を視認できなかったのだが。

 そして、その少年が次に何をするのかも。

「なんだ。突っ張りあいじゃなくて鬼ごっこがお望みか?」

 そう言って、少年は暗黒の塊を右手に保持したまま、左手の人差し指と中指を揃えて自分の額に当てた。

「それならそれでいいけどさ――逃がさないよ」

 



(ありえないあるはずがないあってはならない!)

 空を翔るシスカの脳裏ではひたすらこのフレーズが繰り返されていた。
 確かに突出こそしていないが、それでもエターナル全体から見れば決して弱いわけではないシスカの斬撃を指一本で受け止めてみせたのだ。何よりあの得体の知れなさが恐怖を倍化させる。混乱するのも無理もない。

 それでもシスカの中に残る冷静な部分が、逃走の必要性を訴えていた。
 元々彼女は調査のためにこの世界に来ていたのだ。看過できない異分子を発見したと報告する義務がある。然る後に体勢を整えた上であの少年に対処すればよい。何も単独で当たる必要はどこにもないのだ。
 逃げ帰ったことをあの法皇に嘲笑われるだろうが、生き延びれば挽回の機会はある。無駄死にこそがもっとも恥ずべき行いだとシスカは心得ていた。

 さしあたってはこの結界を脱出しなくてはならない。
 結界の脱出方法は主に2種類ある。
 一つ目は、展開された魔方陣の核の破壊、この場合はあの少年を殺すことだ。この方法はどのような結界であろうと適応される最もポピュラーなやり方だ。何しろこの上なく分かりやすい。維持するためのマナの供給がなくなれば結界は自然と消滅するのだから。
 しかし、あの少年を殺すなどシスカには思い浮かべることさえできなかったので、この方法は破棄せざるを得なかった。
 二つ目は、結界の綻びを抉じ開けることである。こちらは少年をどうこうするのではなく、シスカ自身の技量が物を言う分野だ。隙間を見抜く目と、外への道を切り開く力さえあればいい。

 まずは綻びを見つけなくてはならない。このまま少年から逃げ回りながら結界を構成する魔方陣のマナを調べ――

「よ、また会ったな」
「っっ!!??」

 ――られなかった。
 前触れなく目の前に現れた少年に腰を抜かしそうになりながら、方向転換を試みる。
 しかし最高速で飛んでいた身ではそれも叶わず、自ら少年の間合いに突っ込むことになり、

「んでタッチ」

 あの暗黒の塊が保持された右手が突き出された。

竜破斬ドラグ・スレイブ!!!」

 少年が叫んだ力ある言葉に従い、虚無が解き放たれる。
 極大の爆発がシスカを襲った。球状に膨らむ闇の奔流はその勢いを地表にまで伸ばし、樹木や山肌を蹂躙する。
 咄嗟に張った7枚重ねの障壁も瞬く間に破壊され、シスカは暗黒の渦に飲み込まれた。

 そこからどうやって逃げ出せたか、はっきりと思い出せない。
 気が付けばシスカは死を思わせるあの闇から逃れていた。爆発は余波を残して消え、未だ鳴動の鳴り止まぬ空間の中、必死に体勢を立て直して宙に浮く。

「ぐ……っは……」

 被害は甚大である。たったの一撃で既にシスカは戦闘続行が難しいほどのダメージを負ってしまった。障壁を張るためにかざした左腕は肘から先がズタボロだ。マナも随分と消費している。
 しかし幸いと言うべきか、行動不能になったわけではない。
 辺りにまだ漂う爆煙に紛れてこの場を離れて、早く結界の綻びを探さなくては。

 だがそれは叶わない。動こうとしたシスカを逆巻く風が取り囲み、その体を押さえつける。
 風によって煙が吹き散らされて清浄さを取り戻した視界の中、薄笑いを浮かべた少年がシスカを見据えていた。

「だから逃がさないって」
「く……おのれ……!」

 最早成す術もないシスカにできることは、忌々しげに少年を睨みつけることだけだった。脱出を図ろうにも、弱った体を押さえる縛鎖の風は小揺るぎもしない。たかが風とは侮れない、敵ながら見事なマナ制御の賜物だ。

「もう十分足掻いただろ? これでお終いだ」

 そう言って少年は右腕をシスカに向ける。すると不可視の腕輪【黄昏】が光り、その姿を現した。
 青と白のパーツで構成された腕輪の周りに花びらのような緑の文様が浮かぶ。膨れ上がったマナが変形し、掌から伸びる指のように5本の歪な棒が大きく広がる。向けられるそれはさながら砲台のよう。
 そこに異質なマナが充填されていき、砲口から虹色の光が漏れ出てきた。

 ゾクリ、と背筋に悪寒が這い寄る。
 あれを食らってはいけない。心が、全身が、【超克】までもが悲鳴を上げて訴える。

 不意に、シスカの脳裏に閃くものがあった。
 あの光を、自分は知っているのではないか。
 見たことがあるのか。それとも聞いた覚えがあるのか。不吉な印象を与えるあの光、少年の姿。あれのことをどこかで――

 ………………
 …………
 ……

「何故だ! どうして盟主が殺された!」
「落ち着かないかシスカ」
「黙れ! そもそも貴様が側にいながらどの面を下げて――」
「僕が悔しくないとでも思うか!!」
「……!」
「編成した僕を含む追撃隊は全て撃退され、途中でカオス・エターナルに横槍を入れられた。できたのは生き残りを回収して逃げ帰ることだけ。それが現実だ」
「くっ……」
「ねえシスカ、覚えているだろう? アルバ様の教えを」
「……過程がどれだけ惨めであろうと最後に笑う者が勝者、か」
「そう、主を失い、仇からおめおめ逃げ帰った僕らは確かに惨めだ。それでも生きていれば汚名返上の機会は必ず来る。神剣の意志を担う我々にとって、無駄死には最も愚かな行いだ」
「……そうだったな。すまなかった」
「こうなれば四の五の言っていられない。法皇派の連中とも連絡を取らなければ」
「しかし、いったい何者の仕業なのだ? 何か特徴は?」
「強かなやつだったよ。残した情報は少ないけど――」

 ……
 …………
 ………………

(そうだ、私はあれを知っている……!)

 昔、シスカが任務で主の下を離れていた時に、皇帝派の本拠地としていたある世界が襲撃を受けたのだ。
 帰還したシスカは驚愕した。エターナル最大とも言える勢力の一角ロウ・エターナルの一派が襲撃され、なんと盟主《皇帝》アルバは殺されたというのだ。しかも、怒りに囚われた彼女を諭した幹部のエターナルが言うには、敵はたったの一人とのこと。

 世界を消滅こそされなかったものの、更地にするどころか混沌と呼べるほど破壊されまくった場所からは残留思念を読み取ることもできず、敵の情報は極少ないものしか判明していない。
 分かっているのは名前と、七色の――

「貴様、それは……! その力は……!」
「ん? あーそうか、これのことは知られてるのか。分かっちゃった?」
「果て無き者……タクミ!!」
「自己紹介はいらないね。まあ、そっちはしてくれなくていいけど」

 何ということか!
 この少年こそが、自分たちが探していた仇だったのだ!
 彼の《皇帝》アルバを下し、多くの同胞を手にかけた張本人!
 我等の盟主を殺した憎き怨敵!

 その瞬間、シスカから恐怖が消えた。全身の痛みも、マナを消耗した自身の危うさも忘れ、ただ目の前の少年――タクミへの憎悪が心を満たす。
 そのシスカへ、タクミは変わらず緩んだままの表情で言い放った。

「そんなわけだからさ、俺の『娯楽』のために死んでくれ」
「く……くっそおおおおお!!!」
「データドレイン――発射」

 迸る七色の光が視界を埋め尽くす。
 その閃光が自分の体を貫いた時、シスカは己を構成する根源的な何かが失われたことを悟った。
 数秒の内にその体は崩れ出し、虚空に溶けて消えていく。痛みは無く、意識さえ混濁の果てに薄れ、何も考えられないまま最期を迎えた。

 こうして《超越の使徒》シスカは、彼女の仇の手によって消え去った――永遠に。





   ***





「ふー、お邪魔虫の排除完了、と」
【ついてないね、渡ってすぐ見つかっちゃうなんて】
「仕方ないさ。ロウには神経質なやつらが多いからな。管理してる庭に余所者が紛れてりゃ気にもなる」

 喚いていた女性のエターナルが消滅したことを確認すると、匠は大きく息を吐いた。いい仕事をした、とばかりに額の汗を拭う。
 しかし匠も、【悔恨】が言うように、この世界に訪れて1日もしない内に見つかるとは思っていなかった。あのエターナルもそれなりに有能ではあったらしい。自分にはどうでもいいことだが。

「何にせよ、さくっと片付けられたわけだし無問題モーマンタイだ」
【おいおい、オレのおかげだってこと忘れんなよ?】
「分かってるって。感謝してるよ」

 匠の右腕で、呼び出された神剣が声を上げる。
 第三位【黄昏】。この腕輪型の永遠神剣は、匠が【最後】と契約してから割と早い段階で生み出された神剣だ。彼には他の神剣にはない特殊な能力がある。

 データドレイン。貫いた対象の存在情報を貪り、奪い取る異質の技。
 エターナルは生物と言うより、情報としての側面が大きい。故にその情報に揺らぎが生まれると途端に存在が危うくなる。データドレインはその情報を破壊して、マナへと還元して吸収する技だ。使う前、予め対象の情報に届きやすくするために大きなダメージを与えて消耗させておかなければならないが、効果は折り紙つきである。
 また、ほとんどのエターナルが保険のために別世界に安置してある情報媒体もデータドレインは逃がさない。本体との繋がりを辿って全てを分解して吸収してしまうのだ。
 まさに対エターナル専用の必殺技である。
 そしてエターナルを殺すということは、情報を止めること。死人に口無しと言うように、匠に関する情報の流出を阻止して、その存在を隠蔽するのにも一役買っている。

【んじゃ、オレはそろそろ戻るぜ】
「ああ。吸収したマナはいつものように無限の剣界なかに振り撒いといてくれ」
【またねー【黄昏】ー】

 匠と【悔恨】に見送られて【黄昏】は姿を消した。

 さて、と匠は思考を改める。
 あのエターナルは反応を見た限りロウ所属のようだった。彼女を殺したことで、無視できない異分子がこの世界に侵入していることは連中にバレてしまったに違いない。
 看過できない存在を排除しようと、再び誰かを仕向けるだろうか?

(いや、それはない)

 確信を込めて匠は断ずる。
 異分子という括りで考えるなら、調査に来た先ほどのエターナルもそうなのだ。調査が目的なのにうっかり邪魔をしてしまっては本末転倒。既に舞台の幕は上がっている。引っ掻き回して物語を崩しかねない行為は慎むはずだ。
 であるなら、今後は横槍を入れられる心配をしなくてもいい。少なくとも当分の間は大丈夫だろう。

 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、匠は色々なことを考える。一歩間違えればかつての倍以上の敵を作りかねない今の状況を娯楽に見立て、心から楽しそうに。
 ああ、こんなに楽しい気分になったのは久しぶりだ。またとないこの機会を心行くまで堪能させてもらおう。

「感謝するぜ。燻ってるしかなかった俺にこぉんな娯楽を与えてくれてよ」
【ほんとラッキーだね。お膳立ては整っていて、しかも入場料までタダだしさ】
「まあ、こっそり舞台の端っこに忍び込んだってのが正しいんだが」
【あはは。でも来ちゃったからには楽しもうよ。邪魔するつもりはないんでしょ?】
「とーぜん。せいぜい踊らさせてやるさ……やつらの好きなように」
【楽しい舞台劇のはじまりはじまり~】

(そう、邪魔はしない。せっかくの面白そうな舞台を壊したりはしないさ。飛び入りゲストとして参加させてもらうよ。たっぷりと楽しませてもらうぜ……)

「くっくっくっく……ふははははは!! あーっはっはっはっは!!」

 封絶の結界が薄れ、彩りを取り戻していく夜空の中、匠はいつまでも哄笑し続けた。



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果て無き物語 | コメント:2 | トラックバック:0 |

序章――肆

 こうして、匠は急速に悠人たちとの仲を深めていった。

「悠~っ、どうだった!? どうだった!?」
「……(無言でブイサイン)」
「まあ、悠人も今日子も、ここ数日頑張ったしな。結果は後からついてくるさ」
「つーか出なかったら直訴でもしてやれ、応援するぞ」

 脅威だったテストが終わったことを喜び合ったり、

「佳織~~~っ! 落ち着け~~~~っ!」
「ちょっ……ちょっと、悠っ! 座りなさいってばっ」
「フレー、フレー! か・お・り!」
「いや、匠よ。お前まで悠人に同調してどうする」

 文化祭でやる吹奏楽部の演奏会を観に行ったり、

「感謝しなさいよね。クラスに馴染めない悠のためにセッティングしたんだから」
「ちなみに高嶺をハメようと率先して動いていたのは岬だぞ」
「なんてことしてくれるんだよ……バイトだってあるのに」
「諦めろ悠人。もう決まったんだから腹くくれ」

 居眠りしていた悠人を勝手に演劇の主役に据えたり。

 そうこうしている内に刻限は迫る。具体的な瞬間は分からないが、近い内に事態は動くと匠は予感、否、必ず動くと確信していた。別世界にある神剣が契約者をせっついてきたのだ。向こうは多少なりとも逼迫しているということ。
 急に事が始まっても、匠は自分の体一つでいつでもどこでも動けるので特に身辺整理とかはしなかった。むしろ不要な動きを見せて物語をおかしくしてはならない。不自然にならない範囲で可能な限り悠人たちと行動を共にしていた。

(もうすぐだ……恐らく年末までに動きがある)
【12月も半分過ぎたしね。ところで当たりをつけたのは誰?】
(高嶺と秋月は確定。後は光陰と岬だろうな)
【私としては佳織も推しておくよ】
(あれ、佳織もか?)
【高嶺君の身近で大切な人って言うと、佳織は外せないと思うんだ】
(そだなー、たしかに高嶺とセットにするなら佳織だわ)

 【悔恨】と相談もしながら、匠は機を待つ。日に日に高まる緊張に神経を尖らせながら、時は流れていった。
 そして運命の瞬間がやってくる。





   ***





 それは匠が光陰、悠人、今日子の4人で下校中、神木神社に向かっている時に唐突に訪れた。
 奇妙な違和感が匠の全身を包み、意識を戻した時には隣を歩いていた他の3人が消えていたのだ。否、周りを見れば自分がいるはずがないところだと分かった。

「何だこれ?」
【いつの間にか3人と逸れちゃってるよ、何なのさこれ】

 即座に風を通じて探知開始。視界を広げて周囲を探る。

「やられた……意識誘導の結界が張られてる」

 認識を歪められる効果の陣が周囲に張り巡らされていることを知る。さらにはその陣に重なる形で人払いの効果もある二重結界だと分かった。
 匠は何者かの手によって、あの3人から離れさせられたのだ。

 もうすぐ何かしらの動きがあるだろうと予測していたが、まさか第三者の手による誘導があるとは思わなかった。
 てっきり神剣の運命操作のみによって『渡り』は行われると思っていたから、匠は彼らといっしょにいるだけに留めていたのだ。

 ――冗談じゃない。
 こちとらあり得なかった千載一遇のチャンスを掴むために動いてきたのだ。出し抜かれるなど以ての外である。
 匠は速やかに決意を固めた。

「【悔恨】、溜め込んだマナを全部使うぞ」
【おっけー、全力で行くよ】

 そう、形振り構っていられない。やらなければ全て無に終わる。
 強き意志を以ってマナと通ずる。やるのはいつもと同じこと。

(必ず、やってみせる!)

 直後、匠の周囲に風が舞い、かざした右手に収束していく。感知できる者ならば、その手に三日月の形に凝る薄い風の塊が見えただろう。
 何はともあれ、まずはこの二重の結界が邪魔だ。満足な力もない匠にはこれを無視して動くことができない。内部に囚われてしまえば、結界範囲を出るまで望む方向へ動けないのだ。
 だから、ぶっ壊す――研ぎ澄ませた意志を掌中の風に注ぐ。結界を構成する『壁』に向けて、

「はっ!」
【エリアルセイバー!】

 叩きつける。薄紙を切り裂くような手応えと共に、刃となった風は結界を切り裂いた。
 同時に自分を取り巻く歪んだ違和感が消えるのを匠は感じた。把握できた瞬間、駆け出す。目指すは先ほどまで向かっていた神木神社。
 匠という邪魔者がいなくなった今、第三者が動く絶好の機会。現に、風の探知を神社に伸ばしてみると不気味なほど高まるマナの気配を感じる。

 たったのワンアクションだと言うのに、匠の内在マナは一気に減った。彼の意志の力を以ってしても、ここまでマナを費やさなければ結界は破れなかったという事実に【悔恨】は驚く。
 走りながら風の操作を続ける今も内在マナはガリガリ削られているのだ。恐らく同程度の魔法を使えるのは残り一回。それを使えばもう後はない。

【だから気にしないでもっと集めちゃえって言ってたのに!】

 愚痴る【悔恨】の言葉にも匠は応えない。今は走ることに集中したかったし、心の中ではやっぱりそうしといた方がよかったかな~と考えていたからだ。

 そうして辿り着いた神木神社の麓、階段の手前に巨大な金色の光の柱が立ち上っていった。光は雲を突き破り、天空へとまっすぐに伸びていく。門が開かれたのだ。

(ぎりぎりセーフか!)
【まだ開いたばっかりだよ! 急いで!】

 距離にして約30メートル。全速で走れば5秒とかからない。
 途中で邪魔が入らなければ。

「なっ……あなたは!?」

 いきなり姿を現した匠を見て、その場にいた少女がが狼狽の声を上げる。
 巫女の格好をしているその少女は、手に古びた両刃の短剣を持ち、匠から見て門の手前に立っていた。
 その存在を認識した瞬間、彼女の身に宿る莫大な力を匠は感じ取る。

(くそったれ! ここまで俺は鈍ったか!)

 何故この化け物に気付けなかったのか。駆け出しながら匠は己を強くなじった。
 高まる門の気配を感じた時から風を通じて探っていたというのに、この場に脅威は見当たらなかった。なのに実際に目で捉えると桁外れな力の持ち主がいる。長いブランクがあるとは言え酷い有様だ。
 いや、反省は後回しだ。今はとにかく門に向かって一直線に走る。

「っ、いけません!」

 走る匠に向けて、少女は手をかざす。掌から溢れた力が複雑な紋様を描き、万物を押し止める障壁を生み出した。
 呆れるほど強大な力だ。これは断じて、身体能力は人間と変わらない匠に向けて使うような力ではない。これほどの力を操れるなら、津波や竜巻などの自然災害にさえ立ち向かえるだろう。
 それが見えないように匠は走る。立ち塞がる少女も、目前の障壁も眼中にないかのように視線を門に固定したまま右手を振るい、叫んだ。

「第一段階の解放を宣言する!」





 その少年の登場は完全に予想の範疇外だった。
 巫女服の少女、倉橋時深くらはし ときみは『時見』という力を持っている。これは簡単に言うと予知能力であり、集中すればかなり正確な未来予知が可能だ。
 それだけに、人払いの結界が敷いてあるこの場所に、彼女が招いていない人間が現れるのは予想外もいいところなのだ。

 戸惑う時深をよそに、少年は弾かれたように走り出した。向かう先は自分の後ろの門。
 無関係の人間を通してはならない。時深は咄嗟に障壁を生み出した。戦闘に於いて防御目的で使うものであり、進行の障害物にはちょうどいい。

 時深の生み出した障壁に、少年は弾かれて終わる――はずだった。

「かき消せ――【幻滅げんめつ】!!」

 咆哮と共に突き出された少年の右手が障壁に触れると、何かが破裂するような音と同時に障壁は一瞬で霧散した。

「そんな!?」
「邪魔だどけえ!」

 驚愕する時深の横を走り抜け、少年は一気に門へ飛び込む。一瞬遅れて、立ち上る光の柱は幻だったかのように消滅した。
 ――全ては数秒の出来事だった。
 後には誰も残らない。結界が張り直されたように、時深以外の誰も訪れなかった。

「一体誰なの……時見の目にも映ってなかったのに、どうして……イレギュラー?」

 『時見』とて万能ではない。彼女自身の能力を超えた力の使用はできないのだ。その限界を超えた先にあの少年はいたということになるが……

(私の障壁をあっさり消してみせた。あれも永遠神剣の力? それに何か言っていた……第一段階、解放、幻滅……あれはどういう意味? 神剣の名前?)

 疑問は尽きない。しかし、いつまでもここで考え込んでいるわけにはいかなかった。

「全て予定通り……とは、いかないわね」

 小さく呟き、手に握る自分の神剣――第三位【時詠ときよみ】を鞘に収めて階段を上る。神社に奉られている、もう一振りの相棒の下へ時深は急いだ。





   ***





 そこはまるで宇宙のような空間だった。
 果てしなく広がる闇の中で匠は浮いていた。遠くには星のような小さな光がたくさん見える。中には世界の内部が覗ける裂け目がいくつかあった。
 そんな中で匠はかつてない解放感に満たされていた。

「……っくくく……」

 俯いたまま、次第に肩を震わせる。

「はは……くっはははは…………」

 高まる喜びを抑えられず、匠は低く笑声を漏らした。
 抑えられるものか。ようやくだ。あのマナの希薄な牢獄から、ようやく出られたのだ。これを喜ばずしてどうしろと言うのか。
 そしてついに爆発する。

「あーっはっはっはっは!! やったぞ!! 出られた!! 出られたんだ!! 143年耐えなくても出られたぞ!! ふっははははは!! ざまあ見やがれ、くそったれ共!! てめえら自慢の檻だからって押し込むからこうなるのさ!! 自分の作戦で俺を逃がしてりゃ世話ねえな!! だーっはっはっはっはっは!!」

 己以外の全てに向けて彼は吼えた。
 溜まりに溜まった鬱憤と、脱出によって得られた解放の喜悦。
 世界の果て、悠久の彼方まで届かせようとばかりに迸る歓喜の咆哮は、時空も次元さえも超えて響き渡っていく。

 故に、『彼女』はやって来る。
 匠の声が届く限り、常に彼の傍らに在ると誓ったのだから。

 前触れもなく側に現れた無限のマナを持つ存在に、匠は少しも驚かなかった。『彼女』なら気付く、来てくれると確信していたから。
 それは巨大な扉の形をしていた。取っ手も鍵穴もなければ模様もない、ただただ大きな扉。

「よう……久しぶりだな、【最後いやはて】」
【はい、本当にお久しぶり……匠さんもお元気そうで何よりです】

 その名は【最後】。永遠神剣の頂点たる第一位のさらに上に座す地位神剣。
 匠が契約した二つ目の神剣だ。

【お母さん! 久しぶりだね、元気だった?】
【ええ、私は元気よ。【悔恨】もいい子にしていたかしら?】
【もっちろん! 匠とも仲良しだもんねー】

 久しぶりに会えた『母』に、【悔恨】も興奮気味だ。今すぐにでも自分の体験談を語りたがる、焦っているようではしゃぎ出したくなるような感情が匠にも伝わってくる。

 その間にも、匠は急速に本来の自分に戻っていた。
 繋がりを得られた瞬間から、【最後】が持つ無限のマナが止まることなく流れ込んでくる。人間の脆弱な体では絶対収まり切らないそれらを、匠は当然のように受け入れた。それが当たり前だから。
 自我が拡大し、意識が広がる。周囲から知覚したありとあらゆる情報が集まり、無制限に匠の脳へ集まってくる。人間の貧弱な脳では到底受け入れられないそれらを、匠は当然のように受け入れた。それが当たり前だから。

 そう、当たり前なのだ。過去に数え切れないほど行われてきたこの作業をまた繰り返すだけ。それを停滞させる理由など何処にもない。
 自分の中に自分が満ちてくる感覚に、眩暈を起こしそうな恍惚を覚える。元に戻った喜びと安心感に匠は存分に浸った。

 エターナル――第三位以上の神剣と契約し、己の運命を永遠の戦いに委ねた存在をそう呼ぶ。匠も遥か昔に【最後】と契約してエターナルとなったのだ。
 超越者や広域次元存在とも呼ばれ、中には神と名乗るものもいる。彼らは生物としての寿命がなくなり、殺されない限り決して死なない不老の体となる。そしてあらゆる世界を移動できる『渡り』の力を持つ。
 第三位以上の神剣でなければエターナルにはなれない。それはつまり第四位以下の神剣とは別次元の力を持つということでもある。彼らはその身一つで天変地異を引き起こせるほどの強大な力を有しているのだ。

【本当にまた会えてよかった……匠さんが急に繋がりを絶ったから、ずっと心配していたんですよ?】
「あー、それはすまないことをしたと思ってるよ」
【本当ですか?】
「本当だって。ただ、あの時のまま時間樹に入ってたらメンドくさいものを押し付けられただろうからさ」
【時間樹……なるほど、そうですか。あそこには【叢雲】が封印されていましたね、匠さんは彼女に会いましたか?】
「いや、俺のことは知られてない。出雲の連中にも見つからないように気を付けてた」

 時間樹とは匠が先ほどまでいた、悠人たちが住んでいた世界を含む巨大な樹のことだ。
 ここに住まう者たちは時間樹を管理する者に監視され、目立つ存在には特殊な枷を付けて時間樹内での運命を管理しやすいように誘導するのである。
 神名かんなと呼ばれるこの枷は時間樹の中ではあらゆる理よりも優先され、こちらの意思などお構いなしに誘導されてしまう。とある事情によって時間樹に押し込まれた匠としてはたまったものではなかった。
 そこで匠は【最後】との繋がりを強制的に絶ち、自分の力を極限まで削ぎ落とすことで時間樹の監視網を潜り抜けることに成功したのだ。もちろんその後も下手に力を取り戻さず目立たないよう慎重に行動していたので、こうして無事に神名を付けられることなく時間樹を脱出できたのである。

「それより【最後】、頼みがある」
【はい】
「俺はまだ戦わなくちゃいけない。もちろん自分の好きなように生きてくけど、それだけってわけにはいかないだろ。俺はやつらを許すつもりなんてこれっぽっちもないし、やつらだって俺を生かしてはおかない。だから、またいっしょに戦ってくれないか?」
【ふふ、その答えはもうずっと昔にしてありますよ。匠さんは既に契約の代償を果たしてくれています。今も、これからもずっと。ならば私の返事は変わりません。どこまでも、あなたと共に在りましょう】
「……ありがとう」

 深々と頭を下げる匠の前で【最後】の姿が薄れていった。扉の輪郭が崩れ、マナの粒子となって匠の体に吸い込まれていく。顔を上げた時には、匠はエターナルとしての力を完全に取り戻していた。
 『母』との話が終わったところを見計らって【悔恨】が慌しく話しかけてくる。

【ねねね、匠】
「分かってるよ【悔恨】。みんなに会いに行こうぜ」
【よっしゃ、いっくよー!】

 そして匠と【悔恨】は二人同時に、二重の詠唱を始めた。

「I am the bone of my sword」
【体は剣でできている】

 それは、二人が歩んだ軌跡。

「Regret is my body,and mana is my blood」
【血潮はマナで、心は悔恨】

 心象を言葉で表し、無限のマナで形を現す。

「I have held over a thousand eternity swords」
【幾多の世界を渡りて不滅】

 願いも、祈りも、望みも、等しく意味を為さず。

「Never know to death」
【ただの一度の消滅もなく】

 ここに在る自分こそが全て。

「And never know to satisfaction」
【ただの一度の満足もなし】

 行き着いた己の果てを超えた先に、

「Have withstood pain to call many swords」
【果て無き者は永久に独り、夜空の下で剣を取る】

 【最後】の力によって生み出された、匠の真の力。

「I have infinity regrets.This is the only my meaning」
【ならば我が存在の意味は他に要らず】

 名を『無限の剣界むげんのけんかい』と称す。

「All of me was "unlimited sword world"」
【この身は無限の剣を包んでいた】

 瞬間――マナが爆発した。
 ビッグバンによって宇宙が生まれたように、そこに一つの世界が現れた。

 世界間を移動する際に見える宇宙のような光景は瞬く間に姿を消し、塗り潰すように新たな世界が広がる。
 匠が降り立ったそこは草原だった。
 涼やかな風が吹き抜ける野原が地平の彼方まで広がり、覆い尽くす夜空には数え切れない星が瞬いている。
 それだけなら(不思議ではあるものの)きれいな風景として表現できるかもしれない。
 しかし、この草原に散らばる無数の存在が、ここが自然の風景でないことを物語っていた。

 無骨な剣が刺さっていた。
 優美な槍が立っていた。
 質素な刀が飾られていた。
 巨大な斧が転がっていた。
 薄い布が漂っていた。
 分厚い本が浮いていた。
 一足の靴が揃えられていた。
 他にも指輪、冠、盾、短剣、腕輪、杖――あちこちにある全てが永遠神剣だ。
 匠の、大切な家族である。

【……お? 何だ?】

 現れた匠に最初に気付いたのは、彼から最も近い場所で傾いた姿勢で地に突き刺さっていた一振りの剣。

「おいっす。久しぶりだな」
【え、何だよ、匠か? 匠かよ、おい!?】

 俄かに騒ぎ出したその声に、他の神剣たちも何事かと意識を向け――そこにいる匠に気付く。

【うぉいみんな、匠が来たぞ!!】
【本当ですか!? ご主人様がいらっしゃったので!?】
【あーーー!! 匠さんだーーー!!】
【マジかよ……くたばってなかったのか】
【わーい、タっ君だー!】
【ったく、心配させやがってこの野郎!】
【おかえり匠!】
【やっぱり生きていたね、うん】

 津波の如く押し寄せる歓迎の声は、まるで物理的な圧力を持っているかのように匠に降り注いでくる。それを一身で受け止めることを心地よく感じながら、匠は周囲を見渡した。

「みんな、本当に久しぶり。長い間来られなくてごめんな。いやー、ちょっと困った事態になってたからさ。ついさっき、ようやくそれが解決したんだよ。呼ぶより自分で来た方が早いと思ったから――」
【おとーさーーーん!!!】

 神剣たちに語りかける匠の言葉を遮って、彼に突撃を仕掛けたのは小さな火の玉。体当たりするようなその勢いに、匠は驚きながらも受け止めた。

「おっとっと……よしよし、寂しかったのか?」
【おとーさん、おとーさんだ! ん~、おとーさん!】

 あやすように伸ばした匠の手の周りのくるくる回り、次いでその顔に擦り寄る。自分の顔にくっついてくる火の玉を優しく撫でる匠には、火の玉の感情が手に取るように分かった。
 それはあたかも、幼子が離れ離れになっていた親にようやく会えた安堵で泣きじゃくっているようだった。

「まったく、みんなの手前だぞ。お前の方がお姉さんだっていう子もいるのに、示しが付かないじゃないか」
【やっ! おとーさんがいればいいの!】

 きっぱりと言い切ってくる言葉に、匠は頬を緩ませる。娘にここまで慕われて嬉しくないわけがない。

 そう。匠は親なのだ。
 今の火の玉だけではない。この草原にいる全ての神剣にとって、【最後】が母、匠が父なのである。

 地位神剣と契約したことで、母体である【最後】のマナにイメージと名前を与えることで新たに神剣を生み出し、その神剣の力を制約無しで引き出せる権能が匠に与えられた。これにより匠は、自分がイメージできることなら文字通り何でもできるようになったのだ。欲しい能力があれば、その能力を宿した神剣を生み出せば好き放題に使えるのだから。
 それをいいことに、自分の思うように大量の神剣を生み出してしまった時期もあった。ここにいる神剣の多くは、彼が無思慮にも後のことをまったく考えず生み出したものである。
 人間に例えるなら、育てられる当てもないのに子供を作りまくった、といったところだ。今になってから思い返すと死にたくなるほど情けないのだが、生まれた神剣たちに罪はない。生み出した神剣を、それぞれが自分の望む契約者を見つけるまで責任を持って面倒を見ると匠は決めた。

 ここで活躍するのが『無限の剣界』だ。
 これは【最後】の無限のマナを用いることで初めて発動することができる極大魔法であり、平時は匠の体内で永続的に展開している。
 正確には魔法ではなく一つの世界の名であり、そこには【最後】に連なる全ての神剣を内包できる。そして代価を払うことでそこから自在に神剣を呼び出せるのだ。
 魔法として発動すると現実を侵食し、匠のいる場所の情報を上書きして、この夜空と草原が広がる世界を現出させる。

 ところで、契約者が見つかるまで、と述べたように匠は彼らの契約者ではない。あくまで神剣たちの父である匠の場合は、力を与えて神剣と一時的に協力する代行者と言える。
 真の契約者とは神剣の力を引き出すだけでなく、その力を互いで高め合い何倍にも増幅させるのだ――匠と【悔恨】がそうであるように。

 余談だが、【最後】との契約の代償は『彼女の子供たちの面倒を見ること』である。匠はこれを、神剣たちの親になれ、と解釈した。『無限の剣界』に納めた神剣たちを教育したり躾けたりしている内にいつの間にか父親のように慕われ、今に至る。

「おーいみんな、聞いてくれ!」

 額にくっつく火の玉をなだめた匠は全ての神剣に呼び掛ける。物理的に離れすぎている神剣にもその声はしっかり届いていた。『無限の剣界』は匠の世界。そこにある全ての存在に声を届かせることは造作もない。

「俺はまた戦いを続ける。それには俺一人の力じゃ心許ない。【悔恨】と【最後】はいっしょに来てくれるって言ったけど、みんなが力を貸してくれればもっと心強いんだ。俺はみんなとは契約していない。それでも、気が向いたらでいいから呼んだ時に応えてくれないか?」

 一見すると普段と同じような匠だが、内心ではそれなりに緊張していた。
 匠が契約している神剣は【悔恨】と【最後】の二振り。『無限の剣界』にある無数の神剣とはどれとも契約していないのだ。いくら彼らの力を好き放題に使える権能があるとは言え、本人たちからの了承も無しに勝手なことはしたくはなかった。

【水臭いぜ、匠】
【あたしたちはみんなタっ君が好きなんだから】
【ま、仕方ねえから力を貸してやるよ!】
【ご主人様は意外とだらしないところがありますからね。私たちが支えて差し上げなくては】
【いまさらという感じもするけど、僕らは望んで力を貸しているんだ】
【わたしもおとーさんといっしょにがんばるよ!】
「ありがとう! 愛してるぜお前ら!」

 当たり前のような快諾の言葉をもらって匠は感動してしまった。何年も彼らをほったらかしにしていたというのに変わらず自分を慕ってくれる子供たちが可愛くて仕方ない。

 なお、この都合が良すぎるように思える展開は匠と神剣たちの感覚の違いが原因である。基本的に神剣には寿命がないので、余程の事情がない限り非常に気が長いのだ。己が望む契約者が見つからない場合など事情によっては100年単位で孤独にすごすことも多い。
 それに比べて『無限の剣界』の中にいればたくさんの家族といっしょに過ごせるので、寂しさや退屈などはほとんどないようなものだ。母と協力してこの世界を創り、自分たちという荷物を背負う匠を、神剣たちは強く尊敬しているのである。

 了解を得られた匠はすぐに動き出す。さしあたって必要なのは修行の場所。となれば『彼』が最適だ。またお世話になるとしよう。

「第六段階の解放を宣言する」

 宣言と共に多数の体内回路を開く。あの牢獄の中では第二段階までしか開いたことがなかったので、これほどのマナを流すのは久しぶりである。

「狭間に響け――【虚気うつろぎ】」

 呼び掛けに応えて現れたのは一つの扉。【最後】とは違ってちゃんとドアノブが付いている。
 第五位【虚気】。扉と、その内部に広がる空間型という一際変わった永遠神剣だ。

【……あれ、さっそく僕の出番?】
「ああ。こんなとこでずーっと『無限の剣界これ』を展開してると周辺世界との摩擦がシャレにならないからさ。またお前の中を貸してくれよ」
【……いいけど……たしか僕って一生の内48時間しか使えないはずだよね】
「そうだな」
【……匠ってばもう1000時間以上使ってない?】
「なんだ、数えてたのか。そだなー、全部合わせると500年くらい篭ってたことになるから、それぐらい使ってるんじゃね?」

 口調の通りのんびりとした性格の【虚気】も、匠の自由っぷりにやや呆れ気味である。

【……まあ、匠だから別にいいけどさ……でも出る時は言ってね。空間を裂かれるってけっこうヤな感じなんだから】
「分かってるよ――それじゃみんな、また今度なー」

 【虚気】から了解を得られると、匠は振り返って他の家族と別れの挨拶を告げた。
 別れを惜しむ声を嬉しく思いながら、匠は『無限の剣界』に供給するマナを絶つ。途端に周囲の風景は鮮やかさを失い、匠と【虚気】を除いて崩れるように消えていった。

 元の空間に戻ったことを確認すると、撫でるように【虚気】の表面を優しく叩き、匠は扉を開いて彼の中へ入った。内部は白一色の無味乾燥な空間が広がっている。地球と同じくらいの広さがあるが、ちゃんとした足場があるのは扉の周囲だけである。
 扉を閉めた途端に匠の体に多大な負荷がかかる。外界との繋がりが遮断され、内部にある全ての存在に【虚気】の制約が適用されたのだ。
 重力は地球上の10倍になり、空気濃度は4分の1。気温は50度からマイナス40度の間を常に上下し、さらに空間内のマナ量は【虚気】の気分次第で変わるという地球よりも格段に厳しい環境は修行するには打って付けだ。

 そんな【虚気】の中へ久しぶりに入ったというのに歩みを進める匠の足並みに乱れはない。呼吸をするように自然と【悔恨】の力で肉体強化を施し、10倍の重力をその身一つで受け止めている。
 足場の中央まで来た匠は足を止めて一度深呼吸をする。

「さて……まずは戦闘訓練といきますか」

 気配察知のための風の操作練習とか、長い間会えなかった家族との団欒とか、やらなきゃいけないことややりたいことは他にいっぱいある。それらを差し置いて真っ先に戦闘訓練をしようと思ったのは、それが一番必要だから、ではない。
 ぶっちゃけ匠もムシャクシャしてるのだ。あの牢獄から出られなかったストレスを、思い切り体を動かして解消したいのである。

「それにムシャクシャしてるのは俺だけじゃないみたいだしな」
【そうだね。さっきも、声は出してなかったけどすっごい睨んでたみたいだし】

 クスクスと笑う【悔恨】の言葉に頷きながら、匠は虚空に手をかざした。

「第八段階の解放を宣言する」

 宣言と同時に匠の体内の回路を膨大なマナが駆け巡る。高まるマナに慄くように大気は軋み、ひび割れた空間の隙間からオーラフォトンの光が漏れ出した。

「悪を抱きし魔剣よ、我が手に現れ星を砕け――【魔王まおう】!」

 かざした手に出現したのは長大な両刃の剣。闇色の刀身を持ち、髑髏のような鍔の中に虚無を思わせる丸い空洞がある。
 そんな禍々しい雰囲気を持つ神剣――第三位【魔王】に、匠は実に気安く話しかけた。

「やあ【魔王】、こうして会うのは2世紀ぶりだな。元気にしてたかい?」
【……相変わらず能天気な面してやがるな】
「そういうお前も変わらず殺気立ってるな。みんなと喧嘩……しただろうけど、泣かせてないだろうな」
【だったらどうだってんだよ、あ゙?】
「もちろん、オシオキ♪ ってことで俺の訓練に付き合ってもらうぞ」
【そいつは『いつも通り』でいいんだよな】
「ああ、いいぜ――俺を殺してみせろ」

 ニヤリと笑って匠は【魔王】を放り投げた。宙に舞った【魔王】は落ちることなく空中でピタリと動きを止め、その切っ先を匠に向ける。

 これまでの会話で分かるように、【魔王】は匠を嫌っている。憎んでいると言ってもいい。
 全ての子が親を慕うわけではない。中には反発し、逆らう子も多くいる。【魔王】はその中の筆頭とも言うべき神剣で、隙あらば匠を殺して自由になろうと企んでいる。自分が『無限の剣界』に囚われているなんて間違っていると主張しているのだ。
 こういった危険思想を持つ神剣を匠は放り出すつもりはない。かと言って力尽くで押さえつけるのも大人気ないと考え、匠は彼らにある提案をした。
 俺の屍を超えていけ――要するに、自由になりたければ親である自分を倒して誰にも文句を言われることなく巣立っていけ、と伝えたのである。その際に生死問わず、とも。
 そうして挑戦してくる神剣たちを匠は一振り残らず撃退してきた。それは今のように【虚気】の内部だったり、どこかの世界に滞在していた時に運良く見つけた契約者を嗾けてきたり、中には匠が激しい戦いを終えて消耗している時を狙われたこともあったが、匠の方もきつく躾けるチャンスだと言って、訓練するような気持ちでよく挑発したりして利用している。

 さて、永遠神剣は単独では能動的に動くことはできない。彼らは基本的に運命操作を用いて自分の契約者を引き付けることしかできないのだ。
 その状態でどうやって匠に挑むのか。答えはこうである。

「母なる【最後】の名の下に、我、榎本匠が召喚す。御身に秘められし神獣よ、我が前に姿を現したまえ……ヴリトラ!」

 匠の言葉に反応して、ただでさえ強い【魔王】の存在感がさらに膨れ上がる。闇色のマナがその剣身を包み、巨大な球体となった。
 球体が消えた後には一匹の竜がいた。見上げるほどの大きな竜だ。名は禍竜ヴリトラ。【魔王】に秘められた意志が具現化した守護神獣。
 漆黒の鱗が体を覆い、口元には人の胴ほどもありそうな白い牙が並ぶ。闇のオーラを纏う中、黄金色に輝く双眸は憎悪を込めて匠を睨みつけていた。

 契約者がいない神剣であっても、こんな風に匠は【最後】の権限を使って、神剣を核にすることで守護神獣を呼び出して戦わせるのだ。

【はっ、命がいらねえらしいな!】
「解釈はお好きにどーぞ。どうせやることは変わんねー」
【上等だ、ぶっ殺す!!】

 殺意を振り撒き、周囲のマナを無節操にヴリトラは取り込んでいく。押し寄せるその殺意を柳に風と受け流して匠は不敵に笑ってみせた。

【いきなり第三位を相手にして大丈夫?】
(そりゃあきついさ……けど足踏みしたくないし、ちょっぱやで勘を取り戻すならきつい方がいいんだよ)
【まー、文句はないけどね。死なないでよ?】
(じょぶじょぶだいじょぶ、なんとかなーる)

 話しかけてきた【悔恨】になんとも軽々しい口調で答える。巨大な竜を前にして変わらない匠の調子に【悔恨】は安心した。

 既に匠の体内回路は【魔王】を呼ぶ時に開かれている。流れるマナ量も十分だ。後は自分がどれだけ早く勘を取り戻せるか。

「踏み削れ――【石火せっか】」

 石床を強く踏む両足には底にいくつものローラーが並ぶ靴、第七位【石火】が、

「見据えろ――【鷹目たかめ】」

 顔を覆った左手の下から露わになった右目には巴模様が浮かぶ紅い瞳、第十位【鷹目】が、

「誘惑する薔薇の雫――【恋人こいびと】」

 勢いよく振り下ろしたその手には刀身が緋色の刀、第六位【恋人】が握られていた。

「さーてと、気合入れろよお前ら。踏ん張らないと死ぬぞ」
【おっしゃ! 任せとけ!】
【承知であります、主殿】
【ああ、匠、ようやく会えたね……君を想うとボクh】
「うん、とりあえず【恋人】自重しような」

 どことなく気が抜けたように笑いながら匠は身構える。【悔恨】の他に三振りの神剣を同時に操ることに少しも気負いはない。

「まあ、なんだ。いっちょやるかい?」
「VVVVV……WWWWWRRYYYYYYYYYYYYYY!!!」
【私も行くよー!】

 【悔恨】の声に後押しされるように、咆哮を上げるヴリトラに向かって匠は突進した。



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果て無き物語 | コメント:2 | トラックバック:0 |

序章――参

 険悪の一言では済まされない雰囲気だった。
 互いに憎悪を抱き、きっかけがあれば殺し合いでも始めかねない空気に気圧されたのか、気付いたところで誰も彼らに近付こうとしない。

 自分がそんな空気を撒き散らしている自覚もなく、悠人は相手の胸倉を掴み上げた。

「言いたいことがあるならはっきり言え」
「おい、よせ悠人っ」

 光陰の静止の言葉も今の悠人には届かない。

 相手の名は秋月瞬あきづき しゅん
 この地方の名門である秋月家に生まれ、文武両道をその身で体現する少年だ。
 しかし人気は皆無。とにかく自分の気持ちばかり優先させたがる行動により、周囲の人間からは精神的にかなりの距離を置かれている。
 かと言って積極的に排斥する者はいない。名家の嫡男への対応を間違えたりしたらどうなるか分かったものではない。教師達も学園への影響を恐れているのか、瞬に対してだけは強く出られない。
 いけ好かないけど手が出せない――それが周囲の評価である。

 そんな瞬が唯一拘るのが、悠人の義妹、佳織だ。
 誰も信用しない瞬が。佳織にだけは異常なほど優しい。それが悠人にとって不気味だった。
 不気味で、不可解で、不愉快。不の三拍子が揃った存在である瞬を、悠人は激しく嫌っていた。
 同時に瞬もまた悠人を嫌っている。佳織の側に自分ではない誰かがいる。瞬にとってそれだけで憎むには十分すぎる理由だった。

 ――それが意図的に作られた関係であることを本人たちが知る由はない。

「触るな」
「触るなじゃねえんだよ。何が気に入らないか説明しろよ」

 胸倉を掴む手を瞬の喉へ押し付ける。瞬の顔が一瞬苦痛で歪むのを見た悠人は、さらに腕に力を込めた。

 保健室で目覚め、迎えに来た光陰と今日子の三人で教室に戻ったところを偶然出くわした瞬が、悠人の顔を見た途端舌打ちして通り抜ける際に肩をぶつけてきたのが騒動の発端だ。それだけで頭に来た悠人は衝動に任せて正面から瞬にぶつかったのだ。
 基本的に温厚な性格の悠人からは考えられない行動である。

(俺が一体何をした! 何がお前をそうさせる!)

 激情に駆られた悠人はますます強く腕を押し付け――瞬がニヤリと笑ったことに気付いた。
 突然、自分の脇腹に何かが食い込む。その凄まじい衝撃に悠人は声も出せず手を放し、その場に倒れた。腹部で荒れ狂う衝撃が邪魔をして呼吸もできない。

「悠っ!」

 倒れた悠人に今日子が駆け寄る。

「はっ、何やってるんだよ。だから触るなって言ったろ?」
「か……ぁはっ……」

 のたうつ悠人を、ニヤニヤと笑いながら瞬は見下す。冷たい廊下のタイル上でもがく悠人は呼吸を取り戻そうとするだけで精一杯で、何もできない。

「野蛮なことをするのは勝手だけど、かっこ悪いぜ悠人」
「随分とえげつない真似するじゃないか、秋月」

 二人を守るように前へ出た光陰が口を開く。

「仕方ないだろう。先に手を出してきたのはそっちなんだからな」
「だからと言って、携帯握って腹を殴るなんて感心しないな。下手すりゃ命に関わるぞ」
「はっ……よく見てたな。仕方なかったって言っただろ。正当防衛だよ」
「そうは言っても、過剰防衛は逮捕ものだぞ。きちんと加減しないと面倒なことになるからお互いに気を付けような」
「いや、加減とか言う前にそもそも喧嘩するな――って匠?」
「はーい、匠さんですよー」

 いつの間に現れたのか、光陰の隣で喋り出した匠に場の全員が驚く。
 しかも無駄に爽やかである。平時はやる気のなさそうな仏頂面が、盆と正月に加えてクリスマスまでいっぺんに来たかのようなにこやか笑顔であり、やたらご機嫌だ。
 会話への加わり方がさり気なさ過ぎて彼の登場をうっかり流してしまいそうだったが、光陰は確かめずにはいられなかった。

「お前、今までどこ行ってたんだよ?」
「クソしに便所」

 気絶した悠人の側を離れた理由を聞く光陰に、匠は実に短く簡潔に答えた。
 微妙な顔になる光陰を他所に、匠と【悔恨】は現状把握に努める。

(こいつ見覚えあるんだけど誰だっけ?)
【秋月瞬。悠人や今日子とは別の意味で有名人だよ】
(あー、あのボンボンね……なるほど、こいつが高嶺と対の契約者か)
【だね。【鷹目】君のおかげで、今なら私にも分かるよ】

 学校に戻る際に、風で感じ取れる間合いに入った時から悠人を監視していた匠は、瞬と会って激昂した様子も殴られて倒れたことも見えていたので知っている。なので学校に到着してすぐ彼らの元へ来ることができた。
 それだけでなく、悠人と同じように風を通じてマナの気配を感じ取ることで瞬もまた別世界との繋がりがあることを知る。しかも悠人に共鳴しているような、非常によく似た波動を感じられた。

【見たところ、憎しみの増幅だね。あ~あ、二人に挟まれたマナが怯えちゃってる】
(なーる。やつらの好きそうなやり方だ……)

 憎しみ。それがもたらす怒り。他人を傷つけるにはもってこいの感情を、意志のあるものは当たり前のように持っている。それを異常増幅させて契約者同士で争うように仕向ける方法は、数多くの神剣が好んで用いる運命操作の一つだ。
 何故か――都合がいいからだ。
 互いを傷付け合うのに最高の感情が最初からあるのだ。わざわざ新しい何かを植え付けなくても、元々あるものを後押ししてやる方が簡単なのは明白である。

(ったく、これだから躾のなってない剣は……)

 匠としては反吐の出る思いだが、今のところそれは置いておく。
 現状は芳しくない。匠の返事を聞いた光陰は頬をやや引き攣らせ、今日子は露骨に顔をしかめている。瞬は胡乱な目つきを向けており、悠人に至っては這いつくばったままで匠の登場に気付いてもいないだろう。
 4人が立っていた舞台に、部外者が唐突にしゃしゃり出てきたようなものだ。観客がいたらブーイングが飛ぶかもしれない。気にもならないが。
 かと言って、舞台に上がっておきながら何もしないわけにはいかない。ここで匠がするべきことは、

「しっかしまあ、ひどいことするねえ」

 悠人の味方だ。

「何だお前は?」
「そこに倒れてるやつのクラスメイトさ」
「目障りだ、消えろ」
「気持ちいいくらいに断言するね。人のダチに手ぇ出しておいてそりゃないだろ」
「……何?」

 匠を見る瞬の目つきが、路傍の石を見やるような素っ気無いものから敵意を帯びた険しい視線に変わる。

「ついさっき友達になったばかりなんだが、なったからにはキチンと友人として接しようかと思うんだ」
「お前も疫病神に与する偽善者の同類というわけか」
「ちなみに名前は榎本匠だ、よろしくね~」
「ちっ、カスが……好きなように吠えていろ」

【あ、言っちゃった】

「おおそうか、なら好きなように吠えさせてもらうとするよ。前々から思ってたんだけどさ、お前の髪の毛って真っ白だよな。その歳で脱色するくらいストレス溜まっちゃってんの? 適度に発散しないと次は胃とか内臓が参っちゃうから気ぃ付けな。目も赤くなって充血しちゃってるし、化粧や目薬で誤魔化せるものにも限度があるからちゃんと睡眠取りなよ」

 匠以外には聞こえなかったが、【悔恨】の呟きに被るタイミングで匠はすらすらと淀みなく語り出す。
 へらへらした笑みと相まって、どう考えても挑発にしか聞こえなかった。

「貴様……僕に喧嘩を売っているのか?」
「いやいやそんな滅相もございません。ワタクシといたしましては秋月家のお坊ちゃまの健康を配慮した上での発言でありますのでどうか平にご容赦を」

 売ってるよ。むしろ吹っかけてるよ。
 ニコニコと人のよさそうな笑顔で続ける匠を睨む瞬の視線が険しさを増し――

「……てめぇ…」

 その背後で立ち上がった悠人を見て一瞬驚いた顔をした。あっさりと匠に興味を無くし、すぐに余裕の表情で声をかける。

「おや、大丈夫かい悠人。だいぶ顔色が悪いようだよ?」
「そう言う、てめぇも……顔が引き攣ってるな」
「よしなってば、悠…」
「おっとっと」

 袖を掴む今日子の手を振り払い、間にいた匠を押し退けて悠人は拳を握る。
 しかし、瞬に向かって一歩踏み出したところで、光陰がその腕をしっかりと掴んだ。

「離せよ…光陰!」
「やめろ悠人」

 悠人が腕を動かそうとしてもびくともしない。凄まじい力で止めている。

「ったく、秋月も悠人もその辺にしておけ。学校で殺し合いでもしたいのか?」
「そうだよ。あんたも悠も、顔合わせるといっつもこうなんだから……」

 光陰と今日子の顔を見て、瞬はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
 襟元を直し、興味が失せたように立ち去ろうとして、背中を向けたまま口を開いた。

「言いたいことを言ってやるよ、悠人」
「……」
「佳織はお前といたら絶対に幸せになれない。どこかに行った方が彼女のためだ」
「またそれかよ。たまには違うこと言えばどうだ?」
「佳織の面倒は僕が見る。絶対にその方がいいんだ!」
「っは! パパにお小遣いもらって、だろ。くだらないこと言うのも大概にしろ!」
「……話はそれだけだ。いや、後一つ」

 そこまで言うと瞬は振り返り、悠人を睨む。
 その視線に込められているのは紛れもない憎しみ。

「……?」
「お前に触られることが、僕にとって最も気に入らないことなんだよ!」
「なんだと!」
「いいか、二度と触るんじゃあない! もし今度、僕に触ったら……本当に殺すぞ!」
「っは、できるもんならやってみろよ!」

 言うだけ言うと、悠人の怒声を気にする素振りも見せず瞬は歩き去る。
 その背中が離れていくにつれて、ようやく場の空気が穏やかなものへと戻っていった。
 悠人の方も、瞬の姿が完全に見えなくなったところでようやく落ち着きを取り戻したようだった。

「……わりぃ」
「相変わらずだな、お前らも」

 小さく笑いつつ光陰は悠人の手を離す。強く掴まれていた部分が赤くなっていた。

「ほんっと、あんたたちは仲悪いわねー。前世の因縁でもあるんじゃない?」
「なんだよそれ。別に俺があいつに何かしたわけじゃない。あいつがいつも……」
「その割には秋月と会うと、いつもお前が喧嘩吹っかけるよな。よっぽど合わないのかね?」
「分からない……けど」

 悠人は考え込むように言葉を切る。

「しかし殺伐ってのはあのことかね。とんでもない空気だったわ」

 そこへ響く、場の空気を無視した匠の声。まさにAKY。

「なんだ、匠は悠人と秋月のぶつかり合いを見るのは初めてか?」
「ああ、岬のハリセンと違って実際に見たのは今日が初めて」
「どうしてそこであたしが引き合いに出されるのよ」
「細かいことは気にするな岬」

 授業の合間の休み時間でも、匠が廊下に出る用事と言えばほとんどがトイレくらいである。
 廊下で起こる悠人と瞬の接触を目撃することはなく、教室で今日子のハリセンを見ることが多いのは当然だ。

 話題を切り替えるように光陰が匠に話し掛ける。

「けどずいぶんと長いトイレだったな」
「ああ。でも保健室を出る前にちゃんと置手紙を残したぞ。ベッドに生徒が寝ていて何も伝言がなかったらサボりと勘違いされるからな」

 匠が保健室を飛び出す直前に残したメモのことだ。
 ちなみに書いてあった内容は『2-3 たかみね きぜつ』だけである。
 決して偽りの情報ではない……のだが、これを見ただけで分かる者は少ないだろう。たしか保健室には生徒の利用記録帳とかなかったのだろうか?
 光陰たちがそんな風に考えていることを察したのか、匠は慌てて付け足す。

「だ、だって仕方ないじゃないか。俺だってあそこまで急に腹が下るとは思わなかったんだ。便意なんて人間にはそう我慢できるもんじゃないし、メモを残せただけいいだろ?」
「……まあ、悠を診てくれたんだし、あんま責めるのも悪いか」
「だな。それで、すっきりしたか?」
「おうよ!」

 光陰の問いに、無駄に元気良く答える匠。そんなに嬉しいか。

「いやー、あそこまで大量に出たのは久しぶりだったよ。よく、腸が健康だとバナナくらいのが2、3本って言われるじゃん。まさか5本分も出てくるとは、俺もびっくりしたさ。今体重計に乗ったら1キロくらい軽くなってるんじゃね? これってば何というダイエッt」
「分かった、分かったから。聞いたのは俺だけどその話はもう止めろ」

 ニコニコと語り出す匠を疲れた気分で止めながら、光陰は内心で驚いていた。
 これほど機嫌の良い匠は見たことがない。少なくとも、便の出が良かった程度でここまで喜ぶとは思えないのだが……

「それはそれとして、災難だったな高嶺」
「ああ……その、悪かったな」
「何が?」
「瞬とのゴタゴタに巻き込んじまって……ごめん」
「別にいいさ。秋月瞬と高嶺悠人の仲の悪さは学園でも有名だ、俺だってそれくらい知ってる。それに――」
「?」

 一度言葉を切る匠だがすぐ続ける。

「俺たちは、いわゆる友達になったんだろ? だったら、困ってる時は手助けしないとな」

 肩をすくめて何でもないように言う匠の姿に、悠人は救われた気分だった。

 この地方における秋月家の影響は大きい。学園の中だけで考えても、瞬に盾突いて平気でいられる者は少ないのだ。
 悠人に影響が出ていないのは佳織が関わっているからであり、関わりのない生徒や教師が立場を危うくしたことも多い。
 そんな相手に真っ向からぶつかる悠人を、匠は抵抗なく友達と呼ぶ。
 それが嬉しかった。





(さて……掴みはこんな感じかね)

 教室に戻りながら三人の様子を見やり、匠は心の中でほくそ笑む。

 悠人を利用すると決めた匠は、とにかく彼に近いポジションを取ることに決めた。それも単純に物理的に近いのではなく、信頼を交えた友人にならなくてはならない。
 悠人にとって近しい人間となることで、彼が主人公である物語の登場人物に加わるのだ。そしてその運命に巻き込まれる形で、彼の『渡り』に乗じて匠もこの世界を出る――それが匠の決めた方針である。

 秋月瞬という存在は、匠にとっては好都合だった。
 明確な『敵』がいれば行動一つで己の立場を大きく変えられる。対応次第で自分も敵か味方かはっきりするのだ。利用しない手はない。
 結果、榎本匠は高嶺悠人に味方する人間である、と周囲に認識させることができた。上出来だ。

 そう考えると勉強会とやらも渡りに船だ。
 早急に仲良くなりたい匠としては、とにかく接触する機会を増やすことが肝心となる。なるべく不自然に思われないようにしなければならないが、元々クラスメイトだし、友達ともなれば怪しさはかなり減るだろう。

 決して不可能などではない。
 やるべきことは分かっている。できることも決まっている。
 考え、選択し、その果てに望む結果を得る。
 やるのは、いつもと同じこと。

【匠……それでいいの?】
(いいんだよ。俺にはそれで十分だ)

 打算に満ちた仮初の信頼――匠にとっては、それでも十分すぎる。





   ***





 そんなわけで、夜。
 高嶺家へとお邪魔した匠と光陰が紅茶をご馳走になってゆったりとしていたところ、光陰の携帯電話が震え出した。

「お、電話だ」
「高嶺か?」
「ああ、悠人からだ……もしもし? バイト終わったか?」

 仕事が終わって帰宅途中で電話してきたのだろう。またも風を通じて盗聴をする匠の耳に、二人の会話が届く。

「今日子は用事があるって、いったん学園に戻ったぞ。そのまま悠人の家に集合ってことで」
『じゃあ、まだ進んでないんだな?』
「わりぃ、放課後に少し進めちまった」
『そっか……光陰は今どこにいるんだ?』
「今は悠人の家。佳織ちゃんに言って上げてもらった。帰るのがめんどくさくてな」

 匠の耳に、寒さを滲ませる悠人の声が届く。遅くまでご苦労様だ。
 そうやってボケッと眺めてる匠に近付くのは、この家のもう一人の住人。
 高嶺悠人にとって、この世の何よりも大切な家族。

「榎本先輩、紅茶のおかわりはいりますか?」
「ん、ああ、半分だけもらおうかな」
「はい、どうぞ」

 注いでもらった紅茶を飲みながら、匠はこっそり少女を観察する。

 高嶺佳織たかみね かおり――悠人の義妹であり、光陰も今日子も可愛がっている後輩の少女。
 なるほど、話に聞いていた通りの良い子だ。気配りができ、初対面である匠のことも兄の友人と言うだけで自分もまた友であるように気が置けない空気を自然にまとっている。

(なんつーか、小動物っぽさがあるな)
【そだねー、保護欲をくすぐるって感じ】
(そそ、弄びたくなる雰囲気に満ちている)
【いや違うからその感想】

 やはりと言うか何と言うか、ずれた感想を抱く匠に【悔恨】は突っ込むものの、彼がこの程度で認識を改めたりしないのは承知しているのでそこで止める。

 そんなことをしてる内に、光陰の方で話がまとまったようだ。

「分かってるって。相変わらずのシスコンぶりだな、悠人は……あ、佳織ちゃ~ん。悠人もうすぐ帰ってくるってさ」
「お兄ちゃんですか? あ、それじゃお風呂洗っておかなきゃ」
「よし! それじゃ俺も手伝うよ。二人で洗って一気に終わらせよう!」
「え? えっ? あぅ……」

 鼻息も荒く乗り気な光陰を見てどう断ればいいのか迷う佳織。

『ちょっと待ったぁぁぁ!!』
「なんだよ、安心しろって。熱い風呂沸かしておくから」
『ダメだ! 光陰は風呂への立ち入り禁止。佳織一人にやらせればいい。光陰はくつろいでろって!』
「碧先輩いいですよ。私一人で洗いますから」

 佳織の方もやんわりと光陰の申し出を断る。

「……っち」
『おい、今舌打ちしなかったか?』
「いや、空耳だろ? じゃあゆっくり紅茶飲んで待ってるわ」
『なあ、今舌打ちしたろ?』
「早く帰ってこいよ。まあ、ゆっくりでも俺は一向に構わんが」

 大切な義妹の身に迫る危険に悠人は気が気でないようだ。まあ、電話口でモロに伝わる光陰の鼻息を聞いてしまえば誰だって心配になる。
 ふと、匠は手招きするように腕を伸ばして言う。

「光陰、ちょいとパス」
「ん? ああ――じゃあな悠人。匠が話があるみたいだから代わるぞ」

 それだけ言うと光陰は自分の携帯電話を匠に投げ渡す。危な気なく受け取った匠は光陰に小さく目礼して電話を耳に当てた。

「よー、仕事お疲れさん」
『榎本か? 光陰と一緒に来てた……いや、今はそれより』
「分かってる、二人のことは心配するな。俺がちゃんと監視しておくよ」
『そうか。すまないけど、頼むよ榎本』
「ああ、頼まれた。何が起ころうと手を出すことなく二人の行く末をこの目に焼き付けて一部始終をきっちり監視しておくから心配は要らないぞ。ちゃんと事の顛末を報告してやるから」
『それじゃダメだろ! 逆に心配だ!』

 朗らかに告げられた内容はとても安心できるものではなかった。





 で、その20分後。

「はっはっは! そんなことするわけないだろ?」
「そうだよ~。そんなこと言っちゃ碧先輩に失礼だよぅ」
「そうそう、やっぱり佳織ちゃんは俺のことよくわかってるなぁ」
「いやはやまったくその通り。あんまり親友を疑うもんじゃないぞ高嶺?」

 和気藹々とした雰囲気の中、悠人を交えた四人は今日子の到着を待つことになった。
 場所は悠人の自室に移り、ミニテーブルには佳織自慢のブレンド紅茶が湯気を立てている。
 側に添えられているクッキーは匠が持ってきた。高嶺家での印象を少しでも良くしようと打算故に持参したものである。

 あの後、光陰の毒牙から佳織を守ろうと電話の後は全力疾走してきたらしく、家に着いた悠人は全身汗だくでもう限界かというほど息が上がっていた。
 そして悠人が一風呂浴びる間に、光陰と匠は勉強道具を広げ、佳織は紅茶を淹れ直し、現在四人で雑談に興じている。

「どうだか……佳織はすぐ人を信じるからな。そんなことじゃ、この世の中渡っていけないぞ。悪人に見えないやつほど怖いんだから」

 己に非などないと笑う二人を横目でじろりと睨む悠人。こいつらのせいで全力疾走して疲れる羽目になったようなもので、視線には自然と険が宿る。

「おいおい、勘弁してくれよ。俺と悠人の仲じゃないか。ね、佳織ちゃん。どうも悠人は俺を誤解してるんだよ」
「そうだよ。碧先輩ってとっても良い人だよ? さっきだって、お風呂掃除手伝ってくれようとしてたんだから。そんなこと言っちゃダメだよぅ」

 光陰の泣きつきに応えるように佳織は助け舟を出す。

 同情を誘い、母性をくすぐる光陰の手にあっさり乗ってしまうのは、佳織の良いところであり、悪いところでもある。
 人を疑うことを知らない……というより、人を疑うことをよしとしないタイプの人間なのだろう。

【懐かしいね、こういう雰囲気って】
(そうだな、懐かしいって言えるか)
【なんか佳織って【忘我ぼうが】に似てるかも。う~ん、会いたいな~】
(いや、どっちかというと【惑乱わくらん】似じゃないか?)
【でも【惑乱】は規律とかけっこう口うるさいし、ちょっと違うよ】
(それもそっか。【忘我】ね……うん、なるほど、似てるわな)

 頭の中で【悔恨】と話しながら、匠は思い出す。
 自分たちの家族――『彼女』に連なる数多の眷属たちのことを。もうずいぶんと永いこと会っていない。今日喚んだ【鷹目】も、言葉を交わしたのは実に4年ぶりだ。
 元気にはしゃいでいたやつ。今でも元気にしているだろうか。
 気性の荒いやつ。他のやつと喧嘩なんてしていないだろうか。
 内気で引っ込み思案なやつ。寂しがって泣いたりしていないだろうか。
 気分はまるでお父さんである。事実、眷属たちから見て匠は父のような存在なのだ。

 気になる。会いたい。何度も喚ぼうと思った。
 でも、喚ばない。まだ時ではないのだ。無為にマナを浪費できる余裕は今の自分にはない。その事実に歯軋りする度に匠は誓いを新たにする。
 必ずこの世界から出る、と。

「いいか佳織、これが光陰の手なんだから、引っかかっちゃダメだっての!」
「ん~~?」
「ほらほら、俺たちは勉強するんだから、佳織は部屋で本でも読んでるように!」
「むぅ~……分かったよ。あ、でもお兄ちゃんご飯まだでしょ? 後で支度するけど……」
「今日子も後で来るだろうから、その時にでも食べるよ。軽く温めれば食べられるもん作ってくれ」
「は~い」

 匠が意識を戻すと、佳織が部屋から出ていくところだった。

「またねぇ、佳織ちゃん」
「またです。ご飯食べてくださいね、碧先輩、榎本先輩」
「あいよー、また後でな」
「佳織ちゃんの料理ならいくらでも食べるよ。それはもう腹が破裂するまで、いくらでも!」
「もういいっつーの!」

 軽く返事をした匠はともかく、何度も手を振る光陰に律儀に応える佳織。その姿に再び危機感を覚えたのか、悠人は佳織を追い出すようにドアを閉めた。

「なんだよ~、せっかく佳織ちゃんと仲良くしてたのに」
「……やっぱり光陰が一番、佳織にとって危険な存在だな」
「ひでぇな~、俺は佳織ちゃんが可愛くて仕方ないだけだ」
「光陰は本当に佳織がお気に入りなんだな」

 ミニテーブルの頬杖をついたまま匠も会話に参加する。

「ああ。あんな可愛い娘をだな、独り占めしている悠人の方が問題ある。可愛い女の子は人類の共有財産だぞ。匠だってそう思わないか?」
「一理あるな。献身的な義兄思いの義妹なんざ、どこのエロゲだと突っ込みたくなるくらい貴重な存在だ。光陰の主張も分からなくもない」
「二人してくだらんことを力説するな! 俺は兄として、佳織が付き合う相手を選ぶ権利がある」

 突っ込みを入れながら鞄から教科書とノートを出し、そこで悠人は気付く。

「榎本、お前今、佳織のこと……」
「ん? 呼び捨てにしたことか?」
「まさかお前まで光陰みたいに……」
「安心しろ。高嶺が想像してるようなことはない。ただお前と区別するためだよ。高嶺妹じゃ失礼だし、この呼び方は本人も了承済みだ」
「まあ、それは……そうだけど」

 光陰に案内されて高嶺家にやって来た匠がまず最初にしたことが、佳織との自己紹介である。何しろ自分と佳織は初対面。彼女からの印象を良くすることで悠人からの印象も良くできる重要なイベントだ。
 普段からだらけている匠を知る光陰の手前、あまり好青年を演じてしまうと後々しこりが生まれかねない。なのでここは光陰に同調することで、佳織にとって受け入れやすい姿を見せたのだ。
 要するに『この人は碧先輩と似てる人だな、じゃあ同じような感じで話していけばいいかな』と思わせたのである。

「しかし聞いていた通りだ。本当に佳織、佳織だな、高嶺は」
「まったくだ。悠人のシスコンっぷりは天然記念物モノだな。そんなんじゃ佳織ちゃんに恋人なんてできないぞ」
「しょうがないだろ。あ――」
「兄貴の責任、だろ? 分かってるって」

 教科書とノートを開いた光陰が、ふっと溜息を吐く。

「でもな悠人。佳織ちゃんのことだけで頭を一杯にするなよ? お前だって普通の学生なんだぜ?」
「……」
「そうやって一生懸命で真面目なのが、お前のいいとこなんだけどな。でも、あんまり背負い込むなよな」
「別に嫌でやっているわけじゃないさ」
「そうだろうけどな……一人で全部で背負い込んで、潰れてもしょうがないぜ?」
「……」

 優しく、そしてはっきりと語る光陰の言葉を、悠人は形容しがたい表情で聞いている。
 そんな悠人を見て、匠は小さく溜息を吐いた。

「頑固だよな、高嶺って」
「……どういう意味だよ」
「いや、頑固っつーか、固定観念が強いのな。佳織の幸せは自分が作らなきゃいけない、自分じゃなきゃ作れないとか考えてないか?」

 緩んだ顔のままでも、匠の眼光はまっすぐ悠人を貫いている。

「下手をすりゃ『押し付けがましい』と紙一重だぞ。ま、他人の負担を背負ってる姿は立派だけど」
「ちょっと待てよ。佳織は俺の義妹だ。家族を助けることは負担じゃない。それと、他人なんて言うな」
「それは高嶺の主張だよな。俺の意見は違う。ぶっちゃけた話、究極的に言えば自分以外はみんな他人だ。血が繋がっていようと、そこに確かな絆があろうと、自分ではない別の存在だというだけでそれは背負う荷物になる」
「だから、俺は荷物だなんて思ってないって!」
「そりゃお前はそうだろうさ。けど佳織の方はどうだ?」

 声を荒げる悠人に動じた風もなく、匠は淡々と言葉を続ける。

「背負われっぱなしでいることをよしとする性格か? 負担をかけ続けている自分を許せるやつか? 高嶺が義妹を守ると決めたのはいい。けっこうなことだ。けどな、守られることを受け入れるのは佳織本人だぞ」
「……!」
「この世にもしも傘がたった一つだとしても、探して君に渡すよ」
「何だよそれ?」
「ある歌の歌詞の一部だ。俺ってこの歌詞があんま好きになれないんだよね。傘なんて探してないで、いっしょに雨宿りできる場所を探せばいーのにさ。その方が楽だし」
「は?」

 匠の言葉がよく理解できず、首を傾げる悠人。そんな二人を見かねて、光陰が苦笑しつつも口を出す。

「つまり、特別なことをしなくたって、ただ側にいるだけで安心できるんだから、頑張りすぎることはないんじゃないかってことだ」

 光陰の方に顔を向ける悠人をよそに、匠は一人クッキーを頬張る。光陰に説明させた方が分かりやすいと思ったのか、もしくは自分で説明するのが面倒臭くなったのか。

「一つしかない傘をずぶ濡れになって探してたら寒いだろ? 待っている方も――歌詞の中で言う『君』は、その間は一人ぼっちだ。しかも自分のために傘を探そうとずぶ濡れになってる相手を待つしかない。それってすごい心苦しいことだと思わないか?」
「ああ、そう思うけど……」
「そうやって不安にさせるくらいなら、最初から傘探しなんてしないで、二人でいっしょにいればいいのさ。安心できるし、二人なら頑張ろうって気にもなるだろ?」
「俺がやっていることが、佳織の負担になってるのか……?」
「負担っていうか、そうだな……佳織ちゃんもすごく感謝してると思うぜ。けどその気持ちをきちんと形にして悠人に示してやれないのを寂しいって感じてるんじゃないかな」
「……」

 再び黙り込んでしまった悠人を見て、光陰は微笑して言葉を止めた。
 そして、口の中のクッキーを紅茶で喉へ流し込んだ匠の方を向く。

「お前が言いたかったのは大体こんな感じだと思うんだが、間違ってないか?」
「そそ、俺はそーゆーことを言いたかったのさ」

【最後の部分に本音が混じってたけどねー】

 【悔恨】の突っ込みをスルーしつつ、俯いてしまった悠人に匠は伝える。

「これはあくまで俺の個人的な捉え方だ。佳織を守るっていう高嶺の決意を否定したいんじゃない。最初から一人で歩けるやつなんてそうそういないしな。歩き出せるようになるまで守ってやりなよ」

 そこまで言うと、この話はここまでだと示すように匠は自分の教科書とノートを広げた。
 なんとも勝手なまとめ方だが、悠人としてはあまり追求されたいことではなかったし、光陰も性急に話を進める気はなかったので、今回はこれくらいで落ち着くことにした。

「ま、佳織ちゃんは可愛いからな。一人で背負い込む価値はあるってか」

 指で回していたシャーペンを止めた光陰はニヤリと笑い、悠人の肩を軽く叩く。

「俺もぜひとも独り占めしたいからな。ま、気にするなよ」
「いや、いいさ……じゃあ光陰、榎本、数学を教えてくれよ。俺もバイトがあるから、掃除はマズいんだ」
「そうだな。切実な問題だもんな。とりあえず一通りやるか」
「あいよー。次のテストの範囲はこのページからだったな」
「頼むわ。んじゃ、よろしくお願いします」

 そして三人はようやく勉強を始めるのだった。



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果て無き物語 | コメント:2 | トラックバック:0 |

序章――参(半分)

 険悪の一言では済まされない雰囲気だった。
 互いに憎悪を抱き、きっかけがあれば殺し合いでも始めかねない空気に気圧されたのか、気付いたところで誰も彼らに近付こうとしない。

 自分がそんな空気を撒き散らしている自覚もなく、悠人は相手の胸倉を掴み上げた。

「言いたいことがあるならはっきり言え」
「おい、よせ悠人っ」

 光陰の静止の言葉も今の悠人には届かない。

 相手の名は秋月瞬。
 この地方の名門である秋月家に生まれ、文武両道をその身で体現する少年だ。
 しかし人気は皆無。とにかく自分の気持ちばかり優先させたがる行動により、周囲の人間からは精神的にかなりの距離を置かれている。
 かと言って積極的に排斥する者はいない。名家の嫡男への対応を間違えたりしたらどうなるか分かったものではない。教師達も学園への影響を恐れているのか、瞬に対してだけは強く出られない。
 いけ好かないけど手が出せない――それが周囲の評価である。

 そんな瞬が唯一拘るのが、悠人の義妹、佳織だ。
 誰も信用しない瞬が。佳織にだけは異常なほど優しい。それが悠人にとって不気味だった。
 不気味で、不可解で、不愉快。不の三拍子が揃った存在である瞬を、悠人は激しく嫌っていた。
 同時に瞬もまた悠人を嫌っている。佳織の側に自分ではない誰かがいる。瞬にとってそれだけで憎むには十分すぎる理由だった。

 ――それが意図的に作られた関係であることを本人達が知る由はない。

「触るな」
「触るなじゃねえんだよ。何が気に入らないか説明しろよ」

 胸倉を掴む手を瞬の喉へ押し付ける。瞬の顔が一瞬苦痛で歪むのを見た悠人は、さらに腕に力を込めた。

 保健室で目覚め、迎えに来た光陰と今日子の三人で教室に戻ったところを偶然出くわした瞬が、悠人の顔を見た途端舌打ちして通り抜ける際に肩をぶつけてきたのが騒動の発端だ。それだけで頭に来た悠人は衝動に任せて正面から瞬にぶつかったのだ。
 基本的に温厚な性格の悠人からは考えられない行動である。

(俺が一体何をした! 何がお前をそうさせる!)

 激情に駆られた悠人はますます強く腕を押し付け――瞬がニヤリと笑ったことに気付いた。
 突然、自分の脇腹に何かが食い込む。その凄まじい衝撃に悠人は声も出せず手を放し、その場に倒れた。腹部で荒れ狂う衝撃が邪魔をして呼吸もできない。

「悠っ!」

 倒れた悠人に今日子が駆け寄る。

「はっ、何やってるんだよ。だから触るなって言ったろ?」
「か……ぁはっ……」

 のたうつ悠人を、ニヤニヤと笑いながら瞬は見下す。冷たい廊下のタイル上でもがく悠人は呼吸を取り戻そうとするだけで精一杯で、何もできない。

「野蛮なことをするのは勝手だけど、かっこ悪いぜ悠人」
「随分とえげつない真似するじゃないか、秋月」

 二人を守るように前へ出た光陰が口を開く。

「仕方ないだろう。先に手を出してきたのはそっちなんだからな」
「だからと言って、携帯握って腹を殴るなんて感心しないな。下手すりゃ命に関わるぞ」
「はっ……よく見てたな。仕方なかったって言っただろ。正当防衛だよ」
「そうは言っても、過剰防衛は逮捕ものだぞ。きちんと加減しないと面倒なことになるからお互いに気を付けような」
「いや、加減とか言う前にそもそも喧嘩するなって匠?」
「はーい、匠さんですよー」

 いつの間に現れたのか、光陰の隣で喋り出した匠に場の全員が驚く。
 しかも無駄に爽やかである。平時はやる気のなさそうな仏頂面が、盆と正月に加えてクリスマスまでいっぺんに来たかのようなにこやか笑顔であり、やたらご機嫌だ。
 会話への加わり方がさり気なさ過ぎて彼の登場をうっかり流してしまいそうだったが、光陰は確かめずにはいられなかった。

「お前、今までどこ行ってたんだよ?」
「クソしに便所」

 気絶した悠人の側を離れた理由を聞く光陰に、匠は実に短く簡潔に答えた。
 微妙な顔になる光陰を他所に、匠と【悔恨】は現状把握に努める。

(こいつ見覚えあるんだけど誰だっけ?)
【秋月瞬。悠人や今日子とは別の意味で有名人だよ】
(あー、あのボンボンね……なるほど、こいつが高嶺と対の契約者か)
【だね。【鷹目】君のおかげで、今なら私にも分かるよ】

 学校に戻る際に、風で感じ取れる間合いに入った時から悠人を監視していた匠は、瞬と会って激昂した様子も殴られて倒れたことも見えていたので知っている。なので学校に到着してすぐ彼らの元へ来ることができた。
 それだけでなく、悠人と同じように風を通じてマナの気配を感じ取ることで瞬もまた別世界との繋がりがあることを知る。しかも悠人に共鳴しているような、非常によく似た波動を感じられた。

【見たところ、憎しみの増幅だね。あ~あ、二人に挟まれたマナが怯えちゃってる】
(なーる。やつらの好きそうなやり方だ……)

 憎しみ。それがもたらす怒り。人を傷つけるにはもってこいの感情を、意志のあるものは当たり前のように持っている。それを異常増幅させて契約者同士で争うように仕向ける方法は、数多くの神剣が好んで用いる運命操作のひとつだ。
 何故か――都合がいいからだ。
 互いを傷付け合うのに最高の感情が最初からあるのだ。わざわざ新しい何かを植え付けなくても、元々あるものを後押ししてやる方が簡単なのは明白である。

(ったく、これだから躾のなってない剣は……)

 匠としては反吐の出る思いだが、今のところそれは置いておく。
 現状は芳しくない。匠の返事を聞いた光陰は頬をやや引き攣らせ、今日子は露骨に顔をしかめている。瞬は胡乱な目つきを向けており、悠人に至っては這いつくばったままで匠の登場に気付いてもいないだろう。
 四人が立っていた舞台に、部外者が唐突にしゃしゃり出てきたようなものだ。観客がいたらブーイングが飛ぶかもしれない。気にもならないが。
 かと言って、舞台に上がっておきながら何もしないわけにはいかない。ここで匠がするべきことは、

「しっかしまあ、ひどいことするねえ」

 悠人の味方だ。

「何だお前は?」
「そこに倒れてるやつのクラスメイトさ」
「目障りだ、消えろ」
「気持ちいいくらいに断言するね。人のダチに手ぇ出しておいてそりゃないだろ」
「……何?」

 匠を見る瞬の目つきが、路傍の石を見やるような素っ気無いものから敵意を帯びた険しい視線に変わる。

「ついさっき友達になったばかりなんだが、なったからにはキチンと友人として接しようかと思うんだ」
「お前も疫病神に与する偽善者の同類というわけか」
「ちなみに名前は榎本匠だ、よろしくね~」
「ちっ、カスが……好きなように吠えていろ」

【あ、言っちゃった】

「おおそうか、なら好きなように吠えさせてもらうとするよ。前々から思ってたんだけどさ、お前の髪の毛って真っ白だよな。その歳で脱色するくらいストレス溜まっちゃってんの? 適度に発散しないと次は胃とか内臓が参っちゃうから気ぃ付けな。目も赤くなって充血しちゃってるし、化粧や目薬で誤魔化せるものにも限度があるからちゃんと睡眠取りなよ」

 匠以外には聞こえなかったが、【悔恨】の呟きに被るタイミングで匠はすらすらと淀みなく語り出す。
 へらへらした笑みと相まって、どう考えても挑発にしか聞こえなかった。

「貴様……僕に喧嘩を売っているのか?」
「いやいやそんな滅相もございません。ワタクシといたしましては秋月家のお坊ちゃまの健康を配慮した上での発言でありますのでどうか平にご容赦を」

 売ってるよ。むしろ吹っかけてるよ。
 ニコニコと人のよさそうな笑顔で続ける匠を睨む瞬の視線が険しさを増し――

「……てめぇ…」

 その背後で立ち上がった悠人を見て一瞬驚いた顔をした。あっさりと匠に興味を無くし、すぐに余裕の表情で声をかける。

「おや、大丈夫かい悠人。だいぶ顔色が悪いようだよ?」
「そう言う、てめぇも……顔が引き攣ってるな」
「よしなってば、悠…」
「おっとっと」

 袖を掴む今日子の手を振り払い、間にいた匠を押し退けて悠人は拳を握る。
 しかし、瞬に向かって一歩踏み出したところで、光陰がその腕をしっかりと掴んだ。

「離せよ…光陰!」
「やめろ悠人」

 悠人が腕を動かそうとしてもびくともしない。凄まじい力で止めている。

「ったく、秋月も悠人もその辺にしておけ。学校で殺し合いでもしたいのか?」
「そうだよ。あんたも悠も、顔合わせるといっつもこうなんだから……」

 光陰と今日子の顔を見て、瞬はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
 襟元を直し、興味が失せたように立ち去ろうとして、背中を向けたまま口を開いた。

「言いたいことを言ってやるよ、悠人」
「……」
「佳織はお前といたら絶対に幸せになれない。どこかに行った方が彼女のためだ」
「またそれかよ。たまには違うこと言えばどうだ?」
「佳織の面倒は僕が見る。絶対にその方がいいんだ!」
「っは! パパにお小遣いもらって、だろ。くだらないこと言うのも大概にしろ!」
「……話はそれだけだ。いや、後ひとつ」

 そこまで言うと瞬は振り返り、悠人を睨む。
 その視線に込められているのは紛れもない憎しみ。

「……?」
「お前に触られることが、僕にとって最も気に入らないことなんだよ!」
「なんだと!」
「いいか、二度と触るんじゃあない! もし今度、僕に触ったら……本当に殺すぞ!」
「っは、できるもんならやってみろよ!」

 言うだけ言うと、悠人の怒声を気にする素振りも見せず瞬は歩き去る。
 その背中が離れていくにつれて、ようやく場の空気が穏やかなものへと戻っていった。
 悠人の方も、瞬の姿が完全に見えなくなったところでようやく落ち着きを取り戻したようだった。

「……わりぃ」
「相変わらずだな、お前らも」

 小さく笑いつつ光陰は悠人の手を離す。強く掴まれていた部分が赤くなっていた。

「ほんっと、あんたたちは仲悪いわねー。前世の因縁でもあるんじゃない?」
「なんだよそれ。別に俺があいつに何かしたわけじゃない。あいつがいつも……」
「その割には秋月と会うと、いつもお前が喧嘩吹っかけるよな。よっぽど合わないのかね?」
「分からない……けど」

 悠人は考え込むように言葉を切る。

「しかし殺伐ってのはあのことかね。とんでもない空気だったわ」

 そこへ響く、場の空気を無視した匠の声。まさにAKY。

「なんだ、匠は悠人と秋月のぶつかり合いを見るのは初めてか?」
「ああ、岬のハリセンと違って実際に見たのは今日が初めて」
「どうしてそこであたしが引き合いに出されるのよ」
「細かいことは気にするな岬」

 授業の合間の休み時間でも、匠が廊下に出る用事と言えばほとんどがトイレくらいである。
 廊下で起こる悠人と瞬の接触を目撃することはなく、教室で今日子のハリセンを見ることが多いのは当然だ。

 話題を切り替えるように光陰が匠に話し掛ける。

「けどずいぶんと長いトイレだったな」
「ああ。でも保健室を出る前にちゃんと置手紙を残したぞ。ベッドに生徒が寝ていて何も伝言がなかったらサボりと勘違いされるからな」

 匠が保健室を飛び出す直前に残したメモのことだ。
 ちなみに書いてあった内容は『2-3 たかみね きぜつ』だけである。
 決して偽りの情報ではない……のだが、これを見ただけで分かる者は少ないだろう。たしか保健室には生徒の利用記録帳とかなかったのだろうか?
 光陰たちがそんな風に考えていることを察したのか、匠は慌てて付け足す。

「だ、だって仕方ないじゃないか。俺だってあそこまで急に腹が下るとは思わなかったんだ。便意なんて人間にはそう我慢できるもんじゃないし、メモを残せただけいいだろ?」
「……まあ、悠を診てくれたんだし、あんま責めるのも悪いか」
「だな。それで、すっきりしたか?」
「おうよ!」

 光陰の問いに、無駄に元気良く答える匠。そんなに嬉しいか。

「いやー、あそこまで大量に出たのは久しぶりだったよ。よく、腸が健康だとバナナくらいのが二、三本って言われるじゃん。まさか五本分も出てくるとは、俺もびっくりしたさ。今体重計に乗ったら一キロくらい軽くなってるんじゃね? これってば何というダイエッt」
「分かった、分かったから。聞いたのは俺だけどその話はもう止めろ」

 ニコニコと語り出す匠を疲れた気分で止めながら、光陰は内心で驚いていた。
 これほど機嫌の良い匠は見たことがない。少なくとも、便の出が良かった程度でここまで喜ぶとは思えないのだが……

「それはそれとして、災難だったな高嶺」
「ああ……その、悪かったな」
「何が?」
「瞬とのゴタゴタに巻き込んじまって……ごめん」
「別にいいさ。秋月瞬と高嶺悠人の仲の悪さは学園でも有名だ、俺だってそれくらい知ってる。それに――」
「?」

 一度言葉を切る匠だがすぐ続ける。

「俺たちは、いわゆる友達になったんだろ? だったら、困ってる時は手助けしないとな」

 肩をすくめて何でもないように言う匠の姿に、悠人は救われた気分だった。

 この地方における秋月家の影響は大きい。学園の中だけで考えても、瞬に盾突いて平気でいられる者は少ないのだ。
 悠人に影響が出ていないのは佳織が関わっているからであり、関わりのない生徒や教師が立場を危うくしたことも多い。
 そんな相手に真っ向からぶつかる悠人を、匠は抵抗なく友達と呼ぶ。
 それが嬉しかった。





(さて……掴みはこんな感じかね)

 教室に戻りながら三人の様子を見やり、匠は心の中でほくそ笑む。

 悠人を利用すると決めた匠は、とにかく彼に近いポジションを取ることに決めた。それも単純に物理的に近いのではなく、信頼を交えた友人にならなくてはならない。
 悠人にとって近しい人間となることで、彼が主人公である物語の登場人物に加わるのだ。そしてその運命に巻き込まれる形で、彼の『渡り』に乗じて匠もこの世界を出る――それが匠の決めた方針である。

 秋月瞬という存在は、匠にとっては好都合だった。
 明確な『敵』がいれば行動ひとつで己の立場を大きく変えられる。対応次第で自分も敵か味方かはっきりするのだ。利用しない手はない。
 結果、榎本匠は高嶺悠人に味方する人間である、と周囲に認識させることができた。上出来だ。

 そう考えると勉強会とやらも渡りに船だ。
 早急に仲良くなりたい匠としては、とにかく接触する機会を増やすことが肝心となる。なるべく不自然に思われないようにしなければならないが、元々クラスメイトだし、友達ともなれば怪しさはかなり減るだろう。

 決して不可能などではない。
 やるべきことは分かっている。できることも決まっている。
 考え、選択し、その果てに望む結果を得る。
 やるのは、いつもと同じこと。

【匠……それでいいの?】
(いいんだよ。俺にはそれで十分だ)

 打算に満ちた仮初の信頼――匠にとっては、それでも十分すぎる。


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